« 2020年1月19日主日礼拝説教 | トップページ | 2020年1月26日主日礼拝説教 »

2020年1月22日祈祷会(歴代誌上第15章)

 

 ダビデとイスラエルの全会衆が賛同した、主の箱を迎える願いが、ようやく果たされることとなりました。「ウザ打ち」という試練の後、箱がオベド・エドムの家に安置されていたた期間は、その意味を深めるためのものだったと言えます。「主はわたしたちを打ち砕かれた(13)と、仕方を誤ったことを悔いました。主はその砕かれる魂をご覧になり、ペリシテへの勝利という恵みを与えられます。悔い改めた彼らを「義」とされたのです。ペリシテとの二度の戦の中で、ダビデは新しいことを告げる御言葉に、柔軟に従う姿を示しました。それは魂を打ち砕かれたからこその姿です。一度目は正面から向かい、二度目は側面からと、時に応じて主の御言葉に倣うダビデ。神さまは、悔い改め、み言葉に従うダビデに共におられ、平安を与えたのでした。

1.「悔いる」だけでなく「改める」ダビデ

 改めて主の箱を迎えるにあたり、ダビデたちは箱を運ぶ仕方を改めます。律法(民数記第4章)は、運搬の係はケハトの子孫のみと定めていました。ところがウザは「礼拝の祭具を運ぶ係」のメラリの血を引く子孫だったのです。律法を軽視した不手際を認めたダビデたちが改めて行ったことは「自らを聖別すること(12,14)「レビ族全体が御言葉を運ぶ」と定めたことです。

「『自ら聖別』など、出来るのだろうか」と思われるかもしれません。けれども出エジプト記第19章に記される律法授与の直前、「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる(出エ19:6)と語られます。神さまの民として贖われる人はすべて聖別することが、神さまの契約として定められました。そして御言葉をいただく前に、民は自分で身を清めました。「御言葉に聴いて従う」ところに「自ら聖別する」ことの意義が示されています。「聴いたことに応える」とき、それは自らの行いが伴うからです。

律法の細かい祭儀規定などにふれるとき、その煩雑さには驚かされますし、「焼き尽くすささげもの(燔祭)」など現在の教会の礼拝では実行不可能なものすらあります。けれども軽視してはならないことは「その時代の神の民に御言葉は語られ、民は聴き従うことで、自らが聖別されたことを認識する」という原点(礼拝と聖化)は変わらないということです。ダビデたちは「新しい車を牛に引かせる」「メラリの子孫のウザに守らせる」と、御言葉に聴く前に、新しい仕方や役割分担を実行に移しました。けれどもそこに否が示されました。「永遠に主に仕えるために主によって選ばれた者(2)として聖別されることが、すべての行為に先立つという真実を示します。

「ウザ打ち」を通して「わたしたちの神、主はわたしたちを打ち砕かれた(13)ことを知らされたダビデたちは、ケハトやメラリの氏族に限定せず、レビ人全体が御言葉を担ぐ祭司とされていることを確かめました。こうして御言葉に立ち返り、打ち砕かれたことで、その時代の民に適した仕方がダビデたちに示されたのです。

2.救われ、聖なる者とされたからこそ賛美する

 ダビデたちは、主の箱をあらためて迎えるにあたり、さらに詳細に賛美の楽隊を組織します。13章でも大喜びで迎えに行ったのですが、その比ではありません。主なる神さまに受けいれられた喜びが、ますます増し加えられたのです。「声を張り上げ、喜び祝う(16)ために会衆が整えられていく様子から、今も変わることのない賛美の大切さが伝わってきます。

ところで、わたしたちプロテスタント教会では会衆が全員で賛美をささげます。けれども教会の歴史のなかで、神賛美の喜びが会衆から「取り上げられていた」時期がありました。それは先程の「礼拝は聖なる者のみがささげる」という理解によります。カトリック教会は中世初期からその傾向を強め、第二バチカン公会議(1962-1965)でようやく会衆が賛美歌で礼拝に加わることを認めました。「神聖な努めが聖なる奉仕者によって執り行われ、会衆が行動的に参加して、聖歌によって荘厳に祝われるとき、典礼行為はいっそう高貴な形態を帯びる(第二バチカン公会議・典礼憲章第六章教会音楽113)

一方、宗教改革者たちは、教会音楽を会衆に向けて解放しました。彼らには会衆もすべてイエス・キリストの十字架によって贖われ、同時に聖なる者とされていく生き方に招かれているという理解があったからです(「福音が純粋に説教され、純粋に聖礼典が執行される聖なる教会アウクスブルグ信仰告白第7)。ですから会衆と区別する意味での「聖職者」や「聖歌隊」という言葉は、本当はプロテスタントの信仰理解には沿わないものです。キリストに招かれた信仰者は全て、御言葉と聖晩餐によって聖なるものとされているからです。だからルターは会衆のためにコラールを作り、カルヴァンはジュネーブ詩篇歌を整えました。すべての会衆が十字架に魂を打ち砕かれ、神の御前に悔い改め、そして赦されている喜びを、全身を使って表すことは、聖なる者の証なのです。

3.ミカルのさげすみも、気に留めることはない

 窓から見下ろしながら、ダビデを見下した妻ミカルの姿が印象に残ります。ダビデが王として威厳にこだわらない姿に軽蔑する感情が生じたのです。それは、ペリシテに破れ死んだサウルの娘という立場を慰めるのは、王妃としての立場だったからなのかもしれません。けれどもサウルこそ、王としての威厳に拘り、御言葉に悔い改めず、従えない人でした。そのことでサムエルとも決別します(サム上15)。父サウルが拘った王の威厳と体裁を重んじるミカルは、ダビデや会衆と一緒に神の御前に身を低め、赦されたものの喜びを表現することができません。豊かに、伸びやかに、歌声と動きをもって賛美するダビデを心のなかで見下します。

サムエル記下第6章と異なり、歴代誌はミカルの恵みが取り去られる後生は語られません。ここでは、喜び躍って神をほめたたえる礼拝者を見下す心が、神の御前に身を低めることのできない人に生じることを簡潔に伝えるのみです。けれども神殿再建の場でこの書が読まれたとき、礼拝者たちは安堵したことでしょう。「ダビデのように全身で喜びを伝えていいのだ。誰かの心で見下されても恐れる必要はない。わたしたちは赦された恵みを喜ぶ民とされたのだ」と知り、歌声にますます力が籠もったことでしょう。

神様の臨在は讃美において明らかにされていくと言われます。「賛美は説教では充分に果たせない神のうるわしさを証しする行為」(日基団出版『教会音楽ガイド』)。讃美を通して主を証しすることは、御言葉に応える奉仕です。今年の年間の聖句には続きがありました。「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩篇と讃歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい(コロサイ3:16)自らを聖別する仕方を、すでに教会は御言葉から示されました。十字架を前にしながら、暗いキドロンの谷を歩むイエスさまと弟子たちは、賛美歌を歌いながら歩まれました。最後まで主を誉め讃え、喜ぶのは、聖なる国民、祭司とされたわたしたちの命の営みなのです。

« 2020年1月19日主日礼拝説教 | トップページ | 2020年1月26日主日礼拝説教 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 2020年1月19日主日礼拝説教 | トップページ | 2020年1月26日主日礼拝説教 »

フォト

カテゴリー

写真館

  • 201312hp_2
    多田牧師「今月の言葉」に掲載したアルバムです。(アルバム画面左上のブログ・アドレスをクリックしてブログに戻れます。)
無料ブログはココログ