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2020年1月8日歴代誌上第13章

 

捕囚から帰還したエズラが、神殿を再建するさなかに記したとされる歴代誌。系図を尊重する傾向から「礼拝する場所を整えるために先祖はどのように歩んだのだろうか」というルーツを確かめたい意志が認められます。「礼拝を捧げるために忘れてはならないもの」を求めるエズラを主が用い、歴代誌を聖書正典に加えたと言えます。

 礼拝の中心が信仰の規範である正典・聖書であることは私たちの教会も同様です。ですから、自明のことかもしれませんが、やはり礼拝を導くのは正典である聖書です。また聖書のみ言葉が教会と信仰者の生活を建て上げていきます。今日の歴代誌第13章では、そのときのイスラエルの民にとっての正典が収められた神の箱を迎えに行こうとしていました。礼拝を整えるために、御言葉を中心に置きくことを総意としたのです。

1.ウザ打ちに怒りを発するダビデ「なぜ彼が?」

 さて神の箱を迎えるにあたり、ダビデは独断で実行に移してはいません。「ダビデは千人隊と百人隊の長およびすべての指導者と協議し(1)ます。そして「民のだれもが当を得たことだと思われたので、すべての会衆が賛同した(4)と、全会一致で神の箱を迎えにいくことが決定しました。神の箱は、ペリシテ人の手から奪い返したあと、キルヤト・エアリムに安置されたままになっていました(サムエル記上第7)。ダビデには、礼拝を中心として民を導くにあたり、神の箱を手元に置き重んじたいとの思いがあったのでしょう。サウル王の名を出すあたりにも、神の箱を軽んじたことで滅んでいった彼の轍は踏まないとの思いが込められています。

 大切なことを決めるにあたり、指導者たちと協議し、民の賛同も得ているダビデの手法は極めて穏当に思えます。まるで民主主義の萌芽を見ているようです。わたしたちの教会も大会、中会、小会、教会総会と合議によって事を定めていきます。その仕方を先祖たちから継承したものとして、安堵を覚えて良いのでしょう。

 ところが、こうして合議してはじめた神の箱を迎える喜びの行進が、一変して悲しみの行列になってしまいます。ウザという一人の人が、神の怒りに触れて命を失いました。「ウザ打ち」とも呼ばれる印象深い出来事です。一見、彼が命を失うほどのことをしたとは思えません。むしろ良いことをしたとすら思います。牛車を引いていた牛がよろめいたので、神の箱が地面に倒れないようにしただけなのです。大切な神の言葉が収められた箱です。だれしもウザの立ち位置だったら、そうするのではないでしょうか。

 「ダビデも怒った(11)と、神さまがウザを打たれたことに瞬間的に怒りました。彼としてもウザのどこに落ち度があったのか理解できず、神さまに怒りを向けています。わたしたちも怒りまでは発さずとも、ダビデに同情するのではないでしょうか。いったいウザはどうすれば良かったのか、もし自分がウザだったら、わたしも打たれなければならないのか。御心を思い巡らすところです。

2.ウザ打ちの理由を「説明する」律法

 もちろん理由なくウザが打たれたわけではありません。神の箱は、書物によっては主の箱、掟の箱とも呼ばれます。そのなかで契約の箱の取り扱いを記すのは民数記第4章です。そこで言われる契約の箱の運搬方法は(掟の箱)の上にじゅごんの皮の覆いを掛け、その上から青い一枚布を広げ、担ぎ棒を差し入れる(6)というものです。また担ぎ手は(レビ一族の)ケハトの子らが来て運搬に取り掛かる(15)とあるように、レビ一族のケハトの子孫にしか許されていません。そして歴代誌上第6章の系図には、ウザがケハトの子孫ではないことを記しています。ウザはレビ一族であってもケハトの子孫ではなく、メラリの子孫だということが、まるで伏線のように語られているのです。運搬の正しい仕方と担ぎ手選出の掟を守らなかった責任が、牛のよろめきを誘い、ウザ打ちを招いたことになります。

 「律法を遵守する」ということ、また畏れ多い神の箱を大切に扱うことという点においては、ウザ打ちが起きたことも致し方ないように思えます。そこから得られる教訓は、礼拝の中心となる神のみ言葉を持ち運ぶにあたり、思いをおろそかにしてはならない、丁重に扱わなければならない。ということにもなるのでしょう。

けれども、それで納得してよいのかとも思います。なぜウザだけなのでしょうか。神の箱を迎えに行くことを提唱したのはダビデです。彼は指導者なので責任があるはずです。またほかの指導者たちも協議し、民は全会一致で賛同しました。彼らは神の箱に新しい車を用意しました。敬意がなかったわけではありません。またウザと一緒に同僚のアフヨが車を御していました。アフヨは手を伸ばすことすらしませんでした。彼にも責任があるはずです。問題がそのままになってしまいます。

決してダビデと一緒になって、神さまに怒りを向けたいわけではないのです。けれどもウザの死は、ただ律法を守らなかったから罰として死を賜ったという決疑論的(規範を元に判断)な理解で終わってよいのだろうかという問いが残されます。

3.慢心を打ちつつ、御言葉を支える人を召す主

ダビデたちは全会一致で、神の箱を迎えに行くことを決めました。そこにはわたしたちも重んじる民主主義が映し出されます。けれどもその仕方が常に万能とは限りません。合議したうえで行うことが常に祝福を受けるとは限らないのです。

ダビデはじつにウザの死に怒りを発した直後、「神を恐れた」とあります。彼自身が「わたしたちがしていることは正しい」と思い込んでいたものに、犠牲となる人が出て、そのことへ否が突き付けられたのです。御言葉がよろめき、地に落ちそうになる時が到来したのです。バベルの塔を打たれたように、民主主義の陰に潜む「人の合議への過度の信頼」を神さまは気づかせたのです。ウザ打ちの出来事は、礼拝を人の道理で形作り、神の箱もほしいままに扱おうとしていた神殿再建時代の祭司たちの心を打ったことでしょう。

けれども「み言葉がよろめき、地に落ちそうになる時」ウザはそれでも命を賭して、御言葉が地に落ちないように手を伸ばし、命を取られました。イスラエル全体の罪に対する怒りを、ウザ一人に向けられた神さまは、人の罪を背負うイエス・キリストを十字架の上に召されたお方でもあります。またいつの時代も「み言葉がよろめき、地に落ちそうになる時」命を賭してみ言葉を支える人の命が召されます(宗教改革、ナチスドイツへの抵抗、戦時中の日本、福音時報一月号2頁)

全会一致を重んじたダビデたちへの裁きが告げられるなか、まったく関わりのないオベド・エドムの家が祝福を賜るところで終わります。一方的な選びにより、この家に恵みが訪れ、宿り、祝福します。この神さまの自由な選びに、わたしたちも選ばれていることを謙遜と共に味わいたいと思います。たしかに人の合議と賛同は素晴らしいことですが、その上にある主の一方的な恩寵と選びこそが、人の平和と行いへの祝福を賜ります。ウザとして召されることも臆さず「神の御前で力を込めて歌を歌う(8)行進を、教会は歩み続けます。

 

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