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2020年2月12日祈祷会(歴代誌上第19章)

 

レバノン杉の王宮に住まうまでにダビデの権勢は増す一方で、モーセ以来の荒れ野の天幕に神の箱が置かれたままにされている現状。ダビデの信仰に照らせば、捨て置くことができませんでした。このときのダビデの思いは、神さまを愛する一途な思いで満たされていました。それはとても美しいことなのですが、じつは見落としていることもあったのです。それは、ダビデ王の勢力に、敵愾心を燃やす異民族もまた増えていたということでした。ですから神殿建設は見送らせ、まず果たすべき務めにダビデの目を向けさせたのも、主の深いお計らいと言えるでしょう。歴代志上第18章に記される異民族との続けざまの戦いは、ダビデにはまだ果たすべき務めが残されていたことを示しています。そして、戦いのなかで、ダビデたちイスラエルの国は互いの絆を深めていくのです。

1.愛を憎しみで返される悲しみを知ればこそ

 本章でもそれを受けて、ダビデの家臣たちとの絆が深まり、信頼関係が築かれる様子が記されていました。まず眼差しを向けさせられるのは、アンモン人の王へ弔意を送ったところ、それを無碍にする王子ハヌンと家臣の心無い姿です。「ダビデは、『ハヌンの父ナハシュがわたしに忠実であったのだから、わたしもその子ハヌンに忠実であるべきだ』と言って、使節を遣わして哀悼の意を表そうとした(2)相手がたとえ異民族の王であっても、友好的な関係が築かれていたのであれば、次の代も同じように接するダビデの姿は平和を尊重するものです。ところが王子ハヌンの取り巻きがダビデの勢いを疑います。ハヌンをそそのかし、誠意を受け取るどころか、使わされた使節を辱めるのでした。

 口ひげを落とされ、ズボンを切り落とされるなどいう恥辱は、誰にも見られたくないものです。ダビデは使いを送って、使節が体裁を整えてから帰ってこられるように、思い遣りを示します。それにしてもダビデが、アンモンに対して怒りを示す前に、まず使節の恥を覆ってあげた姿は見事です。

異民族の王子に軽んじられたことへ、怒りを燃やしても無理もないはず。ところがダビデは怒る前に、本当に辱められ、悲しんでいる人に眼差しを注ぎました。それは彼自身も、誠意を無碍に一蹴された経験を持っていたからでしょう。ダビデの名が冠された詩編109編に、このような歌が込められています。「憎しみの言葉はわたしを取り囲み、理由もなく戦いを挑んで来ます。愛しても敵意を返し、わたしが祈りをささげてもその善意に対して悪意を返します。愛しても、憎みます(詩編1093-5)とても悲しい歌声ですが、たしかにこのようなことが起きてしまう、わたしたち人間の交わりの儚さを感じます。けれどもダビデは、この無念を言葉にして神さまに聴いていただける祈りを知っていました。そして怒りに満たされる前に、不誠実な行いをも、神さまが必ず覚えてくださるところに平安を見出すことができたのです。軽んじられ、傷ついた経験のあるダビデだからこそ、使節が受けた恥辱に思いを寄せ、相応しい心遣いを向けることができたのでしょう。悲しみを知れば、同じ悲しみに寄り添うことができるのです。

2.信頼を置くやり取りが、さらに信頼を生む

 情けないのはアンモン人たちです。ダビデが憎しみを向けたわけでもないのに、先手必勝とばかりに兵を向けてきます。誠意を足蹴にする貧しさが、さらに疑いの念を起こしてしまったのでしょう。 

 これに対するは、軍の司令官となったヨアブ。そして兄弟のアブシャイです。アンモン軍に加え、合力を約束したアラムの戦車隊も、背面から襲ってきました。挟み撃ちにされてしまったヨアブは、二正面作戦をとります。形勢は決して有利とは言えません。しかし勇気と信仰に溢れる言葉を語っていました。「アラム人がわたしより強ければ、こちらを助けてくれ。アンモン人がお前より強ければ、そちらを助ける(12)」。このヨアブとアブシャイのやりとりは、彼らに付き従う兵士たちにも聞こえたことでしょう。「おお、将軍たちは息がぴったりだ!」お互いに力を合わせるとき、信頼に溢れたやり取りは、周囲をも勇気づけるものです。

 教会は、二正面どころか、多面的な問題にいつもさらされています。罪という名の敵はまことに狡猾で、もっとも弱い急所を攻めてくるのです。これに対するには、同じお方によって結ばれる信頼が不可欠です。

罪という名の多くの敵に囲まれていたコリントの教会を助けるために、パウロは信頼する弟子を送り込みました。「彼らにもう一人わたしたちの兄弟を同伴させます。この人が熱心であることは、わたしたちがいろいろな機会にしばしば実際に認めたところです。今、彼はあなたがたに厚い信頼を寄せ、ますます熱心になっています(Ⅱコリ8:22)そう書き送りながら、ギリシャ人からの改宗者テトスをコリントに送りました。

問題を抱えていたにも関わらず、テトス自身がコリントの人たちに厚い信頼を寄せていたのは、同じ主を信じ、罪という名の敵と果敢に戦っていたからでしょう。パウロに厳しく問題を指摘されながらも、信頼をされ、テトスを味方に送られたコリントの人たちも奮ったに違いありません。主にある信頼は、新しい信仰を奮い起こすのです。

 

3.ヨアブたちの戦いは、今の教会の戦い

 さらにヨアブの言葉は続きます。「我らの民のため、我らの神の町々のため、雄々しく戦おう。主が良いと思われることを行ってくださるように(13)彼らは、戦う目的をよくわかっていました。それは、自力では戦うことのできない人を守り、代わりに戦うことです。「主が良いと思われることを行ってくださるように」との言葉に、弱い人を助け、代わりに戦うことが、常に主のみ心にかなっているとの確信が込められています。

 これも、罪との戦いということで考えたときに、教会に託されている業を重ねることができるのではないでしょうか。ダビデの詩編にさきほど触れたように、愛を憎しみで返されるような、理不尽なことが多い世ではあります。誠意を尽くしたとしても、ますます伝わりにくくなっているようにすら思えます。「わたしが祈りをささげてもその善意に対して悪意を返します」とのダビデの祈りが、わたしたちの祈りの言葉にもなりそうです。

けれども、イエス・キリストはそのような世を愛され、その世に向けて教会を遣わしました。「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのためにも、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです(ヨハネ17:17-19)わたしたちは遣わされた世のため、執り成しの祈りをささげながら、託された民のため、町々のため、祈りの戦いを続けていくのです。たとえ恥を受けるとしても、ダビデが使節の恥を覆ったように、わたしたちも「真理にささげられた」とのイエスさまの約束によって、充分にそれを覆われています。イエスさまも愛された世を、わたしたちも執り成しを祈りながら、どんなことがあっても愛し抜くのです

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