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2020年2月5日祈祷会(歴代誌上第17章)

サムエル記にも登場する預言者ナタンは、ダビデの信仰を支える重要な役目を果たしました。記憶に残るのは、バト・シェバ事件(サム下第12)でのダビデを叱責した姿です。神さまのみ言葉を取り次ぐ者として、ダビデの罪を明らかにし、彼を心からの悔い改めに導きました。人の思いではなく、主のみ言葉のみを聴き取り、語るべきところを語る預言者の真骨頂です。それでこそ、聞く人を信仰へと導くことが出来るのでしょう。ダビデがナタンを預言者として心から信頼していたことは、本章で次のように語っているところからもわかります。「見なさい。わたしはレバノン杉の家に住んでいるが、主の契約の箱は、天幕を張ってその下に置いたままだ(1)このダビデの告白から、神さまは大いにその御心とお姿を示されます。

1.み言葉を中心に語り合うダビデとナタン

 「レバノン杉の家」というのは、ダビデが神の箱を迎えに行こうと決心する前のこと、ティルスの王ヒラムが材料と職人を贈って作らせた王宮のことです(歴代上14)。ダビデはこれが神さまの恵みによるものだと気づいていましたが(14:2)、その恩恵に預かりながら、神の箱はモーセ以来の天幕に置かれたままであることに気づきます。そこで前掲の言葉とともに、ナタンに相談をするのでした。

これを聞いたナタンの返答はダビデに賛同するものでした。「心にあることは何でも実行なさるとよいでしょう。神はあなたと共におられます(2)このナタンの返答には、とくに彼が熟慮を重ねたようには見受けられません。ナタンも「見なさい!」とダビデに言われて、王宮と天幕を見比べて「王様の仰るとおり。それは良いことだから祝福されることだろう」と思ったのでしょう。ところがその夜、ナタンに臨んだ神さまのみ言葉は、まったくそれと正反対のものでした。「わたしのために住むべき家を建てるのはあなたではない(4)と、ダビデの神殿建設を思いとどまらせようとされます。

この夜のみ言葉を、ナタンは率直にすべてダビデに伝えています。ここにも彼の預言者としての優れた資質が表れていると思います。ナタンはダビデに賛同し、天幕よりも、王宮よりも立派な建物を建てることは良いことだと思ったのです。けれどもそうではないことが告げられたとき、自分の思いは一切あらためて、み言葉を曲げずに語るのです。また、ダビデが「王宮以上の建物を神さまのために建てるのは良いこと」だと感じていながら、敢えて預言者ナタンに確かめる姿も心に留まります。そこには、良いことだと思って始めたところに「否」を示された「ウザ打ち」の経験も生かされているのでしょう。「わたしたちがすることはきっと良いことだ」と確信があったとしても、み言葉に尋ね、またそれと違うことが示されたときに、主のみ言葉をめぐって語り合う二人の交わりは、み言葉を中心においた信仰者らしい交わりということができるでしょう。

2.貧しきところに住まうことも厭わない神さま

 ナタンに告げられたみ言葉に聞いていきますと、神さまはこれまでのイスラエルの民との旅路について振り返るように促されています。「わたしはイスラエルを導き上った日から今日に至るまで、家に住まず、天幕から天幕へ、幕屋から幕屋へと移って来た。わたしはすべてのイスラエルと常に共に歩んできた(56)モーセ以来、たしかに主なる神さまは、イスラエルと共に歩まれたのでした。しかもそのときにご臨在を示された場所は、天幕や幕屋、粗末なつくりのものです。荒野の旅路であれば、それは相当貧しいこしらえだったことでしょう。けれども「なぜわたしのためにレバノン杉の家を建てないのか、と言ったことがあろうか(6)と言われます。いいえ、ありません。神さまは、たとえ粗末な場所であろうとも、その場所に身を置かれるとお決めになったところに臨まれるお方なのです。そこには、貧しき馬小屋の飼い葉おけにも、幼子の姿でご自身を示される前触れを思い起こさせられます。またこれは、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか(一コリ3:16)とパウロに言わしめた、聖霊の臨在も先取りするものでしょう。三一の神は、聖なるお方であり、浄められたところにお姿を現すお方でありながら、心の中に罪が残るわたしたちの内側、貧しきところに住まうこともいとわないお方なのです。

3.信じる人が選ばれて、礼拝所が建て上がる

さらに神さまは「わたしはあなたに告げる。主があなたのために家を建てる(10)と、なんと先にダビデのために家を建てるのはわたしだと言われます。ここにわたしたちは、まず神さまからのご恩寵が先立ってこそ、人は礼拝者として選ばれ、立つことが出来るとの不変の真理を知らされます。「神はモーセに、『わたしは自分が憐れもうと思う者を憐み、慈しもうと思う者を憐れむ』と言っておられます(ローマ9:15)神さまがまったく自由な御心から、ほかの誰でもなく、わたしを選んで憐れんで、慈しんでくださったと証しするみ言葉です。なんと慰めに満ちていることでしょう。

「主があなたのために家を建てる」との預言が、まだ自らのなすところを信じるダビデを、いっそう深い信仰的洞察へと導きます。ダビデは、神の箱を安置するにふさわしい場所、すなわち神殿を思い描いていたはずです。けれども神殿に先立つものは、そこで神さまを愛し、信じ、礼拝をささげる人の群れです。わたしたちも「教会」という言葉を思い巡らして考えたとき、建物としての礼拝堂を指すのではなく「エクレシア:み言葉に招かれたもの」を指すことを知っています。それは主の選びのうちに救われ、招かれた人の群れです。そうして、共同体が出来て初めて目に見える建物も与えられていきます。

ここで神さまは、まずイスラエルの民を導く「家」、つまりダビデ家を建て上げると言われます。その一族からは、やがて神の国を継ぐ者が現れると預言されます。「わたしは彼をとこしえにわたしの家とわたしの王国の中に立てる。彼の王座はとこしえに堅く据えられる(14)そこにキリスト到来の予告ははっきりとは語られませんが、ダビデの末にイエス・キリストをもうけられる預言と聞くことができるでしょう。貧しさを身にまとうこともいとわず、共に歩いてくださるお方が、救われるべき人を集め、まず祈りの家をお建てになられます。まさしくイエスさまは祈りの家を建て上げる時の大工であり、隅の親石です。

 恵みのみ言葉を聴いたダビデは感謝の祈りを献げます。「主よ、今この僕とその家について賜ったみ言葉をとこしえに確かなものとし、み言葉のとおりになさってください(23)ダビデは先に祝福の恩寵に与りました。そして、心から祈る人に新たにされています。これこそ神さまが心から望んでおられる、自らを祈りの宮とする人の新しい創造の業です。

神のご栄光は、立派な神殿のように、物によって現れることはないということが示されました。そうではなく、罪あるものが心より神さまに心服し、聖別され、祈りの人になっていくときに輝きます。主なる神さまが選び、憐み、慈しんでくださればこそ、礼拝を捧げられるのです。

 

 

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