2020年2月9日主日礼拝説教
コリントの信徒への手紙一第2章1-5節
説教『磔(はりつけ)の主を仰げば』 牧師 三輪恵愛
1.「ひどく不安でした」あのパウロが振り返る、コリント伝道のはじめの姿
地中海沿岸を何度も往来しながら、キリストの福音を伝えるために身を献げ尽くした使徒パウロ。行く先々で、ユダヤ人からは避難され、ギリシャ人からは軽んじられ、ローマ帝国には獄に入れられます。あらゆる苦難を乗り越えた姿から、さぞ勇気ある人物のようにも思えます。ところが今日のみ言葉で、コリントの人たちと共に思い出そうとしている姿は「衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした(3節)」。それを隠そうともせず、そして忘れようともしません。
2.アテネでの体験は、むしろ世の知恵、優れた言葉をパウロから手放させた
聖書の研究者には「コリント伝道は、アテネ伝道(言行録17章)の失敗の直後だから、それを引きずっていたのでは?」と推測する人もいます。たしかにパウロの説教を聞いても、アテネの知恵の深い哲学者たちは「死者の復活!?それは、また今度・・・(言行録17:32)」とあざ笑い、背を向けて帰っていきました。けれどもパウロはそれを理由に語るべき福音を変えたわけではありません。いいえ、むしろ十字架の理解に至らない「優れた言葉や知恵」「知恵にあふれた言葉」を手放し、ますます「十字架につけられたキリスト」に集中していきました。不安に陥っても、そこにこそ「“霊”と力の証明(4節)」が現れるとの確信を深めていったのです。
3.神さまの御心を離れては、すべては無価値。けれども磔の主を仰ぐとき・・・
いったい誰が「あなたには赦されるべき罪がある」と言われて喜ぶでしょうか。それは心の琴線に触れなければならない大それた行為です。パウロも人の子。「十字架のキリストを信じなさい、あなたの罪は赦される」との一言を語り掛けるまで、どれほどの逡巡があったでしょう。けれども彼は「十字架につけられたキリスト」に集中したのです。「あなたがたの間でそれしか知るまいと心に決めた」のは、唯一、十字架との関わりにおいてキリストの信仰が生まれ、神の教会が建つことを確信していたからでした。世の知恵、優れた言葉、倫理的に気高い行為、尊敬に値する働き。確かに心を惹きつけ、高めます。けれども、まず先に通らねばらないのは神さまの御心へ立ち帰りなのです。神との交わりが回復しなければ、どれほど優れたものも、立ちどころを得られないのです。むしろ「衰弱、恐れ、不安」のゆえに知恵や優れた言葉を手放し、磔にされつづける主のお姿を仰ぐとき、キリストのゆえに義とされた確かな真実に立ちます。霊と力を得るのです。
【本文は説教要点の抜粋です。全文は音声をお聞きください】
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