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2020年3月15日主日礼拝説教

マタイによる福音書第10章7-15節 

行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」

 

 

 

説教『純熟(じゅんじゅく)のひとしずく』 牧師 三輪恵愛

その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。(12)

.祈るばかりではなく、行って行う者に。しかし、難しいことばかり・・・。

受難節(レント)の第三週を迎えました。主のご受難に心を寄せながら、わたしたちは世界の為に祈ります。「今も苦しみ、悲しんでおられる方々のうえに、平安がありますように」執り成しの祈りは、教会に与えられた大切な使命の一つです。ただしイエスさまは、座して祈るばかりではなく、悲しみ、苦しみ、嘆きの現場にも遣わされるお方です。「行って、病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい(7,8)。けれども、どれか一つでも忠実に果たすことができるものがあるでしょうか。

2.無力を携えてでも、神さまは「行って、平和を語るために」遣わすお方

今日のみ言葉の前のところを読めば「イエスさまが権能(力)を与えた十二弟子だからできるのだ」(1、5節を参照)とも聞き取れます。ただ、7節から15節までをひとまとまりと捉えて聞き取る教会もありました。「病は治せず、死者も生き返らせることはできない。それでも今、出来ることがあるのではないか」真摯に傾ける耳に聞こえてきます。「『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい(7)」「『平和があるように』と挨拶しなさい(12)そこには別の難しさが横たわります。深い悲しみを負う人たちを前にして「平和があるように」と語り掛ける。何が起こるというのでしょう?無力を携えてでも、行って語る意味はあるのでしょうか。

3.「人を平和にするのはわたしである」主御自身が悲しみへと遣わされた

「十二弟子のような権能はない」と無力さを嘆いたのは、どの時代の教会も同じです。イエスさまのお命じにすべて従うことは出来なかったでしょう。むしろ無力さを感じることのほうが多かったはず。「それでも行きなさい」と神さまは深い悲しみへ、わたしたちと遣わします。「その人を平和にするのは、わたしがすること。思い煩わず、なに一つ持たないで、その人の平和をただ願って、そばに行ってあげなさい」そう言われるのです。イエスさまも人間の深い悲しみのところへ遣わされました。「十字架から降りてこい、救ってみろ」そう叫ぶなか、それでも主の平和を語るために、人間の深い悲しみへとご自身を与えてくださったのです。「あなたに神さまは近づいた。主の平和に満たされるように。」その言葉を携えて、深い悲しみへと遣わされていく奇跡。十字架から流れる愛のひとしずくによって、主の平和を告げる者とされる御業が起こされていきます。

 

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