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2020年2月26日祈祷会(歴代誌上第21章)

 

 祈りは時が経ってから、まったく異なる形で聞かれることがあります。神さまは時と場所が異なっていながらも、願いの本質を変えることなく、むしろ一層深めた形で御心を顕されます。神の箱を安置し、礼拝をささげる神殿を建設したいと祈り願ったダビデでした。しかし神さまが「神殿を建てるのは、あなたではない(歴上17:4)とダビデに語られ、祈りは聞かれなかったようにも思えます。

しばらくの時が流れるうちに、ダビデ自身も神殿建設の願いを忘れてしまったかのようです。王宮を作り、異教の民を一掃し、いつしか向かうところ敵がいないほどの権勢が与えられたダビデ。しかし、そんなダビデの思いもよらぬところを「攻撃」するものがいました。忍び寄ってきたのは、人間の信仰を試すサタンです。

1.自分のために民を数えさせる、誘惑のサタン

 「サタンがイスラエルに対して立ち、イスラエルの人口を数えるようにダビデを誘った(1)ダビデがサタンからの誘惑を受けます。それは「イスラエルに向かって立ち」という言葉から、イスラエル全体に及ぶ試練の始まりでもありました。

権勢をほしいままにし、外国にも連戦連勝を重ねるダビデ王。そこに自分が治める国の底力を知りたいという欲望が生じたということだと思います。その誘惑はただ数が知りたいというものではありません。自分が意のままに操れる人の数を数えようとするのです。ヨアブの返答は、見事にダビデの下心を露わにしています。「主がその民を百倍にも増やしてくださいますように(3)ヨアブは、民の数を増やすことも主の御心によることを弁えています。一方ダビデは、人の数を数えあげることで、その力が自分によって建てられ、好きに用いることができると錯覚する罪を抱いてしまったのです。

イエスさまがお生まれてなった時、皇帝アウグストゥスも人口調査を行いました。このときヨセフとマリアの貧しい若い夫婦は、身重でありながら大変な思いをしてベツレヘムに旅をします。たった二人の数を数え上げるために、新しい命を守る夫婦が苦労をするのです。国力をはかり、税収を確保するため、兵役に就かせるための人口調査には、一人ひとりの苦労を思いやる心は込められていません。合計の数に含まれてしまったなかには、一人ひとりの命があります。けれども一人が見えなくなったとき、その存在が軽んじられてしまうのです。

民を数えることは、神さまの御心によって初めてなされるものだと聖書は語ります。民数記はその名の通り、民の数を数えるところから記されます。そこには「以上は、モーセを通してなされた主の命令によって、一人一人の作業や運搬の仕事に就かせるために、モーセが登録した(民数記第449節)」と、主が用いるために民の数が数えられたことが記されています。また、その名がしっかりを神さまの御前に書き留められていることも聖書は伝えます。「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、父の前と天使たちの前で公に言い表す(黙示録3:5)神さまの御前に、一人としてただの数として数えられる人はいません。大切な一人の命として覚えられているのです。

2.何度悔い改めても、自分の正しさに嵌る姿

さて、サタンの姦計にはまったダビデに、将軍ヨアブは逆らいます。「主君はなぜ、このようなことをお望みになるのですか。どうしてイスラエルを罪あるものとなさるのですか(3)。王の願いといえども、おかしいことには諫める言葉を辞さないヨアブの姿は立派です。かたやダビデはヨアブを強引に説き伏せ、持論を翻しません。ウザ打ちのところで悔改めた姿も知るだけに、このダビデの姿は残念です。ダビデと言えども持論に拘るがために心が頑なになることがあったということを覚えておきたいと思います。なんど悔い改めても、正しいことを強引に推し進めてしまうことがあるのです。

このダビデの罪に対して、先見者(預言者の別称)ガドが伝える人口調査に対する神さまの裁きと罰はたいへんに重いものでした。三つ示される裁きのうち、ダビデは「主の御手にかかって倒れよう」と神さまからの直接の裁きを望みます。

3.苦しみを代わりに負ってくださるお方により

それにしても、なぜ、神さまはダビデを打つのではなく、民を打つことで裁こうとされたのでしょうか。「人口調査は、ヨアブの命令一下、民も協力しなければ完了できないから、民も協力したと見做されている」と合理的に解釈する人たちもいます。たしかに一理あるかもしれません。

ただダビデは、この三つの裁きを差し出された時「大変な苦しみだ。主の御手にかかって倒れよう(13)と言います。ダビデやその王家が苦しみを受けるとは言われていません。民が受けるのです。ダビデがもし冷血な人であれば「わたしは罰を受けなくていいのだ」と安堵したかもしれません。けれどもダビデは「大変な苦しみだ」と嘆きます。つまり、自分の過失でイスラエルの民が苦しむことになる結末に、自分の罪を悔いているのです。ダビデは自分に託された大切な民の苦しみのゆえに、苦しむのです。

ダビデの痛悔の言葉には、主が与えたもう試練を通して、大切な人の苦しみが自分の苦しみになるという信仰の成熟がみられます。「自分が痛まなければ、なにをしたってかまわない」ではないのです。自分の過失によって人が苦しむことで、悔い改めるという奇跡。これは神さまの秘儀であり、信仰の大切な源です。なによりも神さまが民の命の痛みを知るお方でした。「もう十分だ、その手を下ろせ(15)民の苦しみを前にして思いなおされました。このように自分の過失のために苦しむ他者の姿が、悔い改めさせるということもあるのです。

教会で礼拝される十字架のキリストは、苦しみを代わりに負ってくださった神の姿の現れでもあります。代わりに痛みを献げてくださる方の姿です。十字架の痛みを受け入れるとき、わたしたちはまことに悔い改めます。そして、今もどこかで苦しみを負う人たちがいるから、世界は支えられていることも知らされるのです。世界は神さまのものであり、かかわりのないものは一切ない、という視野の広がりを与えられ、悔い改めの祈りが一層意義深いものとされます。

み使いの言葉に従い、訪れたオルナンの麦打ち場には、礼拝に必要なものがすべてそろっていました。悔い改めたダビデは、オルナンから神殿の基礎に必要なものをすべて贖い取ります。神殿は「ここにこそあるべきだ(22:1)。代わりに苦しむ人々がおり、ささげられるべきものがすでに備えられていたところに神殿が建つこととなったのです。

神殿を建て、礼拝を捧げたいとのダビデの祈りがようやく聞かれました。しかも、ただ神殿の土台が据えられるのではなく、ダビデの信仰的な深化が伴われています。サタンの誘惑から始まった試練でした。けれども、代わりに痛みを負う人の姿が人を悔い改めへと導き、礼拝を献げるためのものはすでにすべて揃っているという約束が示されていきます。罪人に代わって苦しむキリストを礼拝する教会。その教会のために、主がすべて備えてくださるとの新しい契約を写すかのようです。

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