2020年4月26日礼拝説教(無会衆)
(説教音声のみ)
(配信動画のアーカイブ)
礼拝式順
招詞 使徒言行録第2章38-39節
讃美歌 202
主の祈り
交読文 詩編第116編(交読詩編128p)
讃美歌 55
聖書 マタイによる福音書第26章36-46節(新53p)
祈 祷
讃美歌 316
説教『盃は御心に溢れぬ』 三輪恵愛牧師
祈 祷
讃美歌 522
頌栄 28
祝祷
※使用される聖書と讃美歌
日本聖書協会『新共同訳』
日本基督教団出版『讃美歌21』
マタイによる福音書第26章36-46節
それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
説教『盃は御心に溢れぬ』 牧師 三輪恵愛
父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、 あなたの御心が行われますように。(22節) |
1.待ち受ける十字架の苦しみと、愛のわざへの否定がイエスさまを悲しませる
「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい(38節)」イエスさまのお姿に胸が痛みます。そして驚きます。多くの病の人々を癒やしてきました。御言葉は慰めを与えてくれました。赦しの宣言は、罪人を立ち上がらせてきたのです。それなのに、待ち受けるのは十字架。耐え難い苦痛とその果ての死です。恐怖は人を悲しくさせます。また、イエスさまは見捨てられます。行いと言葉で人々を心のそこから癒やし、慰め、愛してきたにも関わらず、否が突きつけられるのです。愛の拒絶も深い悲しみをもたらします。
2.イエスさまの悲しみを、目を覚まして見届けることができない弟子たちの姿
「わたしと共に目を覚ましていなさい(38節)」と言われても、最古参のペトロ、ヤコブ、ヨハネも目を覚ましていられません。イエスさまの死ぬほどの悲しみを目を開けて見続けることができないのです。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください(39節)」と祈られます。けれども、戻ってくればまどろむ弟子たちの姿。「心は燃えていても、肉体は弱い(41節)」このお方がなぜこれほどまでに深く悲しみ、苦しみ、しかもそれらをお受けになるのか。見なければならないイエスさまのお姿を、弟子たちは受け止めることができません。
3.与えられる杯に注がれるものを新しくしてくださったイエスさまの恵み
すると、その弟子たちの姿を見たイエスさまの祈りが変わります。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように(42節)」と、祈りのなかで示された使命を受け取られます。イエスさまの前に示された杯は、慰めの拒絶、試練への苛立ち、善への不信感、欲求が満たされないことの怒り。神さまが与えてくださる愛へのあらゆる否定でした。けれどもこの杯を、イエスさまは弟子たちのためにお受けになります。「目を覚まして祈っていなさい(41節)」それはイエスさまの苦しみを、心のまなざしを見開いて祈ることです。そのとき、わたしたちの杯に注がれているものは、すでに苦いものではありません。「あらゆる苦しみにはわたしが飲み干したのだから、安心してあなたの杯を飲みなさい。」新しく注がれたものは、イエスさまが捧げてくださった血潮です。命です。苦難すら恩寵に変えてくださる神さまの愛なのです。
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