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2020年4月1日祈祷会(歴代誌下第1章)

 

「ダビデの子ソロモンは自分の支配を固めた」と始まる歴代誌の下巻はソロモンの治世の繁栄を伝えることから始まります。ダビデから神殿建築の事業に必要な財力、物品、人材、そしてなによりも主に頼る信仰を継承したソロモン。「彼の神、主が共にいて、彼を高め偉大な者とされた」と続く1節には、国の繁栄は決してソロモンの力によるものではないことが強調されています。

1.荒れ野を思い起こさせる臨在の幕屋にて

「神さまが共にいてこそ祝福される」真実を心に留めながら第一章を読み始めていきますと、ソロモンは確かに謙虚に礼拝を捧げ、御心を尋ねる(5)ところからすべてを始めます。すべてを継承したにも関わらず、長たちを引き連れて共に礼拝をささげるソロモン。礼拝から王の務めを始める姿は、ダビデから継承したもののなかでも最も大切なものが信仰であったことを証しています。

ただし気になるところは、その礼拝の場所が神の箱を安置したエルサレムではなく、ギブオンの聖なる高台であったことです。そこにはもう神の箱はありません。ところで、このギブオンという土地がどういう場所か感づかせる言葉が記されています。ギブオンには「かつて荒れ野で主の僕モーセが造った神の臨在の幕屋があった(3)というのです。主の僕モーセ。彼はヨルダン川の手前で生涯を終えました。約束の地、つまり今、ソロモンが治めているイスラエル王国には入れなかったのです。けれどもイスラエルの民は、シナイ山のふもとでモーセの指示によってこしらえた臨在の幕屋を旅に伴ってきました。組んで立てては礼拝し、また分解して旅を続け、モーセが亡くなったあとも約束の地まで大事に使い続けてきました。

40年荒れ野で使って、さらにソロモンの頃まで約200~300年。きっと、あちこちはつぎはぎだらけの幕屋だったでしょう。その佇まいは、荒れ野の旅路がいかに苦難に満ちたものであったか、そして、それほどの旅路でも決してご自身の宝の民から離れなかったという、神さまの愛の実直さを告げるものだったはずです。この臨在の幕屋で礼拝を捧げるたびに、先祖の苦労と信仰の継承に思いを馳せ、いかに主の約束が確かなものであったかをたえず思い返したに違いありません。荒れ野の旅路の最終地であるギブオンは、神さまに礼拝する民として召し出されたイスラエルが、礼拝者の実存を顧みる場所だったのです。なるほど、ソロモンたちが捧げている「焼き尽くす献げ物」も、これは礼拝への献身を示すものです(レビ記第1)。種々の献げ物のなかで、第一番目に来る、最も大切なものです。ソロモンたちは「わたしたちは先祖と同じく、礼拝するためにすべてを献げます」と信仰の告白をしているのです。

2.すべてを備えて「願うがよい」と言われる主

ところでソロモンが、神の箱が移された臨在の幕屋で焼き尽くす献げ物を捧げたことは、ただ献身の志を確かめるだけではありません。「神の箱」がなくても礼拝を捧げるソロモンと長たちは、神さまの臨在は「神の箱」という物によって示されるのではなく、み言葉を「会衆と共に主に尋ね」「献げ物」で応える礼拝のなかに示されると正当に理解しているのです。そこには「神の箱さえあれば、仕え人の信仰はどうであれ、主は臨在を示される」という誤った理解に陥ったことへの悔い改めもあったと思われます(サム上4)。ソロモンはかつての失敗も謙虚に心に留めながら、モーセがこしらえた幕屋で、召命の思いと共に礼拝をささげたのです。ですから、そのようなソロモンに神さまがあらわれ「何事でも願うがよい、あなたに与えよう(7節)と言われることは決して不思議ではありません。ソロモンは国を導いてすべてを献げる思いで神殿建築と国家運営に携わることを、自ら与えられた使命と弁えているのですから。

もし神さまに同じようにみ言葉を掛けられたら「何を願おうか」とあれこれ戸惑うかもしれません。イエスさまも言われます。「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる(マタ7:7)

「本当になんでも求めて良いのだろうか」と戸惑いは隠せませんが、神さまが「なんでも願いなさい」と御声をかけてくださるということは、その人が望む物をもうすでにご存知だからです。神さまにすべてを捧げ、そこに生きる道を見出そうとしているからこそ「その生き方に必要なものは、わたしが何でも与えてあげるから、心配せずに祈り願いなさい」と言ってくださるのです。これは神さまに選ばれた人との関係に先立って、与える賜物を定めておられるからこそ成り立つ約束です。

そこでイエスさまはこのようにも言ってくださいます。「あなたがたが、わたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすれば、かなえられる(ヨハ15:7)だから召命に答えるために「これは必要だ」と思えるものを祈り願ってよいのです。

3.低められたところからいと高き方の仕え人へ

願いのとおり、神殿建設と国の統治のために「知恵と識見」を神さまから与えられたソロモンは、さっそく命令を下します。その第一は戦車と騎兵を集めることでした。「軍備の増強が事始め?」と怪しまれるかもしれません。けれどもこの軍備は「エルサレムと町々」、大切な拠点に置かれました。侵略のためではなく防衛のための軍備です。

神殿の建設のためにダビデからすべてを継承したソロモンでした。けれども、それらをただ浪費するばかりでは事業を成し遂げることはできません。事業を持続させるためにソロモンは、いろんな国々と通商を結んでいきます(16-17節は馬の売買による収益)。継承したものを持続させるために、まず守りを固めるソロモンの判断は、やはり「知恵と識見」そして、自分がなにを成し遂げるために神さまに選ばれ召されたのか、自覚を弁えてこそ出来た判断なのです。

「主が共にいて、彼を高め偉大な者をされた(1)とあるように、ソロモンはもともと数多いダビデの王子(14)のなかから、年若く弱いにも関わらず神さまから選ばれました。神さまの選びは人間の強さ、逞しさ、優秀さを基準にはしません。まったく人の判断を超えるまなざしで、選び、召し出し、ご自分の御心のために用いるお方です。だから召し出された思いに満たされている人は、たとえ弱く、乏しい人でも、心を満たされ主の御前に高められるのです。マニフィカートを歌うマリア、ダマスコで栄光に照らされたパウロ、「わたしの羊を飼いなさい」と三度、召し出されたペトロ。みな、いったん低められたところから召し出され、イエスさまの仕え人として用いられました。十字架にお仕えしている自覚を持っている人は皆、そのとおりです。低められたところから、召されたからこそ、召命感のもとに仕えるのです。ぼろぼろになった臨在の幕屋も、その荒れ野の旅路を思い起こすときには、救い主と出会ったかたじけなさに、いつまでも輝いているのです

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