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2020年4月5日棕櫚の主日礼拝説教(無会衆)

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マタイによる福音書第27章45-50節 

さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。

 

説教『我を見捨てよ』 牧師 三輪恵愛

三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」

これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(46)


.棕櫚の主日から十字架の金曜日までわずかの間、死はイエスさまに迫る

「ホサナ(今、救い給え)!主の名によって来るお方に!」救い主到来の知らせを聞いていたエルサレムの人たちは、ろばにのるイエスさまを大喜びでお迎えしたのです。ところがそれからわずか六日(日~金)。裁判によって十字架刑を言い渡され「嘲り、中傷、鞭打ち、唾き(讃美歌296番)」あらゆる苦しみを受け、ついにどんな刑罰よりも苦しい十字架に架けられました。その死の迫り方の早さに、「ホサナ!」の歓呼も遠くかき消されていきます。けれどもそこには、わたしたちも「まさか」と思うほどの早さで、迫る時は迫る死の現実を突きつけられます。

.十字架のまわりの人々の振る舞いに見る「死から目を逸らす人たち」

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」の叫び声を聞き、預言者エリヤの再来を見物半分に期待する人たちがいます。聖書を信じているならば、最後の審判であるエリヤの再来に、悠長なことは言ってられないはず。つまりは死の絶叫すら他人事。また、鎮痛剤とされた酸い葡萄酒を与えようと走る人は、苦しまずに死なせようと思ったのでしょう。でも結局は苦しみを長引かせるだけ。死にゆく命から目を逸らすことにはかわりありません。やはり他人事。けれどもわたしたちは自分の死を死ぬことしかできません。「死から目を逸らす」以外に、生きる希望など・・・

.すべての命と共にいるために、世に叫ぶ救い主「我を見捨てよ!」

「なぜわたしをお見捨てになったのですか」。イエスさまがこんな言葉を叫ばれるとは。ある人は詩編第22編を復活の確信をもって口ずさんだと言います。でも「神に見捨てられた」としか思えない最後の時、超然とした信仰を貫く保証は誰にもありません。この方は「あなたがたと共にいる:インマヌエル」の救い主だったはず。ジュネーブ教会信仰問答、問六十八と七十はこのように応えます。「彼(キリスト)は人間性に属する感情によって、このようなのっぴきならぬ境地で苦しみたもうたのです」「つまり、神の御子はこのような苦痛に圧迫されながらも、御父を待ち望むことをやめたまいませんでした」最後の時、なにを口走り、どうふるまうかは誰にもわかりません。しかしこの救い主は「神に見捨てられた」と思うほどの苦しみにおいてすら、全ての魂のためにインマヌエルを貫かれるのです。そのためならば世に向けて「我を見捨てよ!」と叫ぶことも厭わない神なのです

 

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