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2020年5月3日礼拝説教(無会衆)

(説教音声のみ)

(配信動画のアーカイブ)

礼拝式順

招詞 ペトロの手紙一第2章24-25節
讃美歌 204
主の祈り
交読文 詩編第23編(交読詩編25p)
讃美歌 56
聖書 哀歌第3章21-33節(旧1289p)
祈 祷
讃美歌 325
説教『神はあなたを捨てない』 三輪恵愛牧師  
祈 祷
讃美歌 532
頌栄 29
祝祷

※使用される聖書と讃美歌
 日本聖書協会『新共同訳』
 日本基督教団出版『讃美歌21』

哀歌第3章21-33節 

再び心を励まし、なお待ち望む。主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い/わたしは主を待ち望む。主に望みをおき尋ね求める魂に/主は幸いをお与えになる。主の救いを黙して待てば、幸いを得る。若いときに軛を負った人は、幸いを得る。軛を負わされたなら/黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ/十分に懲らしめを味わえ。主は、決して/あなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く/懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても/それが御心なのではない。

 

説教『神はあなたを捨てない』 牧師 三輪恵愛

塵に口をつけよ。望みが見いだせるかもしれない(29)


.置かれた現実を受け入れられず、過去と存在を否定する普遍的な苦悩

 預言書のあいだに置かれた「哀歌」は、かつてはエレミヤ個人によるものと言われてしました。研究の成果から、今では多くの悲しみの詩が、一つの歌集になったものと言われます。「哀歌」が礼拝で朗読されるなか、群れ全体は歌声を通して苦悩を共有しましました。苦悩を抱える存在としての人間が、神の御前にあって同じ地平に立たされる瞬間です。人が苦悩するとき。それは受け入れることのできない現実を突きつけられたときです。「なぜこうなってしまったのか」、それまで信じてきたものへの否定です。これまでの過去に原因を見出し、それを憎み、悪とみなし、自分自身すら、自分の存在を否定する立場に立ってしまいます。

2.「主を待ち望む」苦悩の中で、塵に口がつくほどひれ伏す悲しみの人

 けれどもこの悲しみの歌を歌う人は、突きつけられた現実をなお黙して受け入れようとしています。「軛を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい(28)しかも現実のなかで「十分に懲らしめを味わえ(30)とすらいうのです。過去を切り捨てたり、消し去ったりしようとはしないのです。そして「塵に口をつけよ(29)、口が塵につくほどにひれ伏すのです。なぜでしょう?それは彼が苦悩のなかにあっても、なお主なる神さまを待ち望んでいるからなのです。「わたしは主を待ち望む(24)そして、苦悩する現実のなかにおいてなお「座ってひれ伏す」、つまり神さまを礼拝し続けるのです。

3.「何一つ、欠けてよいものはない」苦悩のなかで見出す、神の慈しみ

苦悩の中で、礼拝に何を期待しているのでしょうか。「望みが見いだせるかもしれない(29節文語訳:あるいは望みあらん)この言い方は不確かかもしれません。しかし誠実に満ちています。自分自身のなかには希望の源を持たないのです。「今、わたしには希望とするものは何もない」けれどもその境地にひれ伏したからこそ、彼のなかで大転換が起きたのです。それはある一部の過去を否定し、あるいは消去するだけでは得られない、存在のすべてを包み込む幸いです。「主こそわたしの受ける分(24)」、彼は待ち望む忍耐のなかで、苦悩する現実もまた大きな計画のなかにあり、しかもその主のご計画を自分のものとすることのできる希望に満たされていきます。神さまと共に歩む道に欠けるものは何一つありません。苦悩のなかでこそ得る幸い、それは見捨てることのない神さまの深い慈しみなのです

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