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2020年6月14日主日礼拝

前奏
招詞 詩編第100編
讃美歌 11 (1,3節)
主の祈り
交読文 詩編第116編8-19節(交読詩編129p)
讃美歌 165(1,3節)
聖   書 マタイによる福音書第9章35-38節(新17p)
祈 祷
讃美歌 343(1,2,4節)
説   教『収穫を喜ぶ手には』三輪恵愛牧師
祈 祷        
讃美歌 387
献金
頌栄 28
祝祷
報告
後奏

※使用される聖書と讃美歌
 日本聖書協会『新共同訳』
 日本基督教団出版『讃美歌21』

 

マタイによる福音書第9章35-38節

イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

 

説教『収穫を喜ぶ手には』 牧師 三輪恵愛


収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。(37-38)


.「聖書の教え」「福音の宣言」「病い、煩いをいやす」の三点に見る原点

 当時、農業は村や町ぐるみで協力しながら行いました。「収穫は多いが、働き手が少ない」というイエスさまの譬えも、収穫時の実際の光景から来たものです。天の御国の福音を生きる人々を「収穫」、つまり神さまのものにするために、イエスさまはガリラヤ中の村や町を残らず回られました。「会堂で教える」「御国の福音を宣教する」「病や患いをいやす」の三点。聖書の意味を説き明かし、神さまの救いを宣言し、隣人を愛し、苦しみを分かち合って共に生きる。これらこそイエスさまの救いの業にみる、教会の使命の原点と言えるでしょう。

2.「飼い主」に気づけない群衆を、それでも主は深く憐れんでおられる

ところが群衆は「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれ(36)ていました。イエスさまが町や村を残らず訪れ、み言葉を語り、福音を宣言し、魂を癒したにもかかわらず、「わたしには飼い主がいない」とうなだれている群衆。けれどもイエスさまは群衆を「深く憐れまれる(「はらわたが痛む」との意)のです。彼らは、地上にまことの主はいないことに気づき、イエスさまのもとに招かれているからです。恵みに応えるすべを見いだせず、うなだれている魂こそ、神さまがもっとも求めている収穫の垂り穂。ですからイエスさまは、はらわたを痛めるほどの愛情を注ぐ羊飼いとして、うなだれている魂のために心を砕かれます。

3.まず「収穫の主に祈り願う」こと。そこに主は働き手を送ってくださる

弟子たちへ「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい(38節)」と言われるイエスさま。すでに「聖書の教え」「福音の宣言」「病や患いへの助けと交わり」の三点の模範は示されました。しかし弟子たちに「さあ行け」とは言われません。「願いなさい」つまり「働き手を送ってください」と主に祈り願うことを命じられるのです。伝道の収穫を目前にしたとき、さっそく手を動かし、奉仕することを考えます。けれども今日のみ言葉は、取り掛かる前に為すべき大切なことを示しています。「飼い主がいない」と打ちひしがれていた群衆を、「収穫の主に願う」祈りの人へ。その祈りのうちに、働き手への招きの声が聞こえます。「どうか働き手を送ってください」祈り続けた手のひらには、救い主への確かな信頼とともに、収穫のために必要なすべてが与えられていることでしょう。

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