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2020年6月21日主日礼拝

前奏
招詞 詩編第106編1-5節
讃美歌 12 (1,4)
主の祈り
交読文 詩編第86編5-17節
(交読詩編94p)
讃美歌 211(1,3)
聖書 マタイによる福音書
第10章32-39節(新17p)
祈 祷
讃美歌 346
説教『主にあって得る命』
祈 祷        三輪恵愛牧師
讃美歌 571(3,4,5)
献金
頌栄 29
祝祷
報告
後奏

※使用される聖書と讃美歌
 日本聖書協会『新共同訳』
 日本基督教団出版『讃美歌21』

マタイによる福音書第10章32-39節

「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

 

説教『収穫を喜ぶ手には』 牧師 三輪恵愛

自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。(39)

 「こんなに楽しい時間、この命がいつまでも続けばいいのに」愛する家族、大切な人、気の置けない仲間。笑顔にあふれるひと時にふと感じます。「わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである(39節)」永遠の命の与えてくださるイエスさまのこのみ言葉を聴き「もしもいま以上の命を与えられるのであれば、イエスさまのために命を失う生き方とは?」思い巡らし始める時の到来です。.すでに与えられている命をもう一度得ること、終わりのある命のゆえに。

2.剣の鋭さを知ってこそ、共に生きる愛の大切さを知る。

しかしイエスさまが示す生き方は容易ではありません。「人々の前で自分をわたしの仲間と言い表す(32)」「自分の父、母、息子、娘(つまり家族)よりもわたしを愛しなさい(37)」「自分の十字架を担ってわたしに従いなさい(38)。しかも「わたしは敵対させるために来た(35)と、耳を疑うようなことを言われます。「平和をもたらすために来たのではない(34)の「もたらす」とは「投げ入れる」というやや乱暴な言葉です。神さまは「はい、これが平和だよ」とポンと天から地上に投げ入れるように、平和の意味を深く考えさせずに与えることはしません。むしろ剣で関係と枠を切り裂きます。けれどもそのときはじめて、家族、あるいはもっとも大切な人と共に生きる命の意味を知らされるでしょう。「剣」の鋭さを知ってこそ、愛し合う大切さに気づくことが出来るのです。

3.神さまを最も深く愛するとき、失うばかりの命もまた与えられていく。

神さまと「我と汝」の交わりを持つことが信仰です。その生き方を家族に受け入れてもらえないこともあります。共に生きる人への愛と、神さまへの愛のはざまに苦しみます。でも大切な人を愛してこそ、神さまを愛することの大切さと難しさをわたしたちは知ることになります。「わたしよりも」とイエスさまが言われるのは「家族を愛しながら、それ以上にわたしを愛しなさい」ということです。イエスさまを最も愛しながら、共に生きる人を愛する生き方はその人にしか出来ません。それが「自分の十字架」なのです。そして自分の十字架を担って生き抜いた時、「命を得る」ことになると約束してくださいます。その生き方が、大切な人も「イエスさまを受け入れると言い表す」信仰を起こしていくことでしょう。共に生きるなかに見出す命を、永遠のものとして、再び得ることが約束されているのです。

 

 

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