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2020年7月15日祈祷会(歴代誌下第6章18-42節)

神殿奉献で捧げられたソロモンの祈りを聞いています。後半はこのように始まっていました。「神は果たして人間と共に地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません(18)豪華な神殿の傍らで、自分を誇らない謙遜な祈りです。

心血を注いで建てた神殿を前にして、この祈り。けれども祈りのとおりにソロモンは本当に「ここには神さまのご臨在がない」と理解していたのでしょうか。そうなれば臨在、つまり「神さまが人間と共にいてくださる」事実が曖昧になることはないでしょうか。また「わたしが建てた神殿など、なおふさわしくありません」、それは神殿の豪華さが神さまの臨在を顕すほどには、立派ではないという意味なのでしょうか?

礼拝の場には心をこめて神殿造りに勤しんだ働き人も大勢いました。神殿に主なる神さまがともにいてくださることを望んだはずです。彼らはソロモンの祈りに心から「アーメン」と言えたでしょうか。この祈りが単純に謙遜さを示すためだけの祈りなのか、聞き取っていきたいと思います。

1.祈りの礼拝は、主に捧げるもの

今日のみ言葉の大部分は、列王記下第8章にも同じことが記されています。そのなかでも強調されているのが「祈り(20,21,24,26,29)」です。当然のこととは思いますが神殿は、祈り、つまり礼拝をささげるところです。ですから、わたしたちも「礼拝をささげる」という言い方をします。

ただこれは人によっては自明ではないかもしれません。「礼拝を受ける」という言い方を聞くことがあります。かつて教会が「聖書講義所」と呼ばれていたことがあります。察するに、礼拝では大部分が「聞く行為」を伴うので、あたかも授業や講義を「受ける」ように感じられるのでしょう。また、神さまからの祝福の恵み、赦しの恵みを受ける点が強調されることもあります。

けれどもソロモンは新しい神殿でまず祈ります。そして祈りのなかで、さらに祈ることを強調しています。神殿は祈りを捧げるための場所なのです。「神さまに捧げる祈りのために仕えること」これが礼拝(worship service)です。教会でも、み言葉の説教や祝福など受けることが印象的であっても、それも祈りの一部です。ですから「礼拝を受ける」というよりは「礼拝を捧げる」ことがより適正な言い方となるのです。

2.神さまへ背を向けてしまっている罪を思う

次に見ておきたいことは、ソロモンが何を祈っているのかということです。「どうか、あなたのお住まいである天から耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください(21)に始まり、25節、27節、30節、39節と、ここでは「神さまに罪を赦していただけるように祈る」ことが繰り返されています。36節では挿入句のように「罪を犯さない者は一人もいません」と、真理の言葉を語っています。そして、人の罪にも触れています。22節のように個人的に明白な罪もあれば、28節のように人類全体で考えるべき罪もあります。ソロモンはまっさきに罪の告白と、赦しを祈り願っているのです。

では、ソロモンが祈る罪とはどういった罪なのでしょうか。ある日曜学校の先生が、このようなことを話してくれました。「日曜学校の説教で、子供たちに罪を語るのが可哀そう。こどもたちは無垢で清らか。法律を犯したわけではない」なるほど、確かに子供たちは未熟で、大人に比べれば法も犯したことがないかもしれません。

けれども聖書が示す罪は、人間の社会が定めた法を破ることではありません。罪の根源は神さまへの背信です。そして、その中心は「創造主なる神さまを心を尽くして愛し、自分を愛するように隣人を愛する(申命6:4,レビ19:18,ルカ10:27)に従うことができないところにあります。心を尽くして神と人を愛せないことは、すでに罪なのです。

いたいけな子供たちへの優しい気持ちは嬉しいのですが、彼らもすでに罪を考え始めていると思います。「どうして友達に意地悪したときに(されたときに)心が痛むのだろう」と感じることもあるでしょう。愛しつくすことができない本性を知りはじめています。日曜学校は、そのような柔らかな魂を預かっていますから、み言葉から罪を語ってあげなければなりません。ただし裁いたり叱ったりするのではなく、神さまと人を愛することができない自分の姿に気づかせてあげて、そこから神さまに向きなおるまことの命へと導いてあげるのです。もちろん導く務めを持つ方も、神さまの御前には罪の赦しをたえず祈り願い、十字架のゆえにすでに赦されている確信のもとに生きることが求められます。

3.立ち帰るところを与えてくださる神さま

では、ソロモンは赦されるためにすべきことを、どのように祈っているでしょうか。赦しを願う人々が「神殿のほうを向くなら(34,38)」「捕らわれの地であなたに立ち帰って憐みを乞い」「心を尽くし、魂を尽くしてあなたに立ち帰り」と、ここでは神さまが名を置かれた神殿に身をむけること、そして立ち帰ることが繰り返されています。そうすれば「あなたはお住まいである天から耳を傾け、罪を赦してください(21)と祈っています。

ソロモンは、赦しのために神殿に与えられた役割を「あなたの御名のために建てた神殿の方を向いて(34,38)と言い表しています。「神殿に向きなおる」ということは「礼拝に身を向ける」ということです。赦されたい罪を抱えていたとしても、どうすれば赦されるのか、なにをすれば赦されたと信じられるのか、人間だけでは抱えた罪をどうすることもできません。そこに神さまはご自分が罪びとを救い、愛し、栄光を顕すために、神殿、すなわち礼拝をする場所を設けられたのです。ですからソロモンの謙遜な祈りは、「神さまのご臨在が神殿にはない」という意味ではありません。そうではなくソロモンは「罪の赦しを祈り、赦してくださった確信に生きる場所を設けてくださったのは神さま御自身である」との真理にしっかり立ちながら祈っているのです。

ソロモンの祈りに示されていることは、神さまが心を尽くして、礼拝に相応しい場所を建ててくださるという約束です。十字架に救い主の栄光が示されたとき、礼拝に相応しい場所をも示されることとなりました。イエスさまは、はっきりと教会を建てる土台がどこにあるか示しておられます。「あなたはメシア、生ける神の子です(マタ16:16)という信仰の告白。つまり、はっきりと「わたしの罪は、救い主の十字架の贖いによって赦された。わたしは礼拝するもの」と言い表すことです。

キリストが罪の赦しのために、まずわたしたちのために仕えてくださいました。礼拝は、神さまがまず人に仕え、次に、人が神に仕えるものとされていく奇跡です。ダビデのすえなる、油注がれた人(42)それが天の御国の王なるイエス・キリストです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの。これに聞け(マタ17:5)と、ソロモンが祈りをささげた神さまが言われるのですから、礼拝に集い、罪の赦しを祈り、立ち帰りつづけるわたしたちは十分に忠実なのです。

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