2020年6月3日祈祷会(歴代誌下第2章)
ダビデはソロモンに神殿の設計図を渡したあと、こう神さまに祈りました。「わが子ソロモンに全き心を与え、あなたの戒めと定めと掟を守って何事も行うようにし、わたしが準備した宮を築かせてください(歴上29:19)」。こうして神殿建設に必要なものを考えられる限りを尽くし、ダビデはソロモンに後事を託していきました。すべてを与えられたソロモンが、今すべきことはただ一つ「行い」です。その「行い」が、寄留民も異邦人も分け隔てなく、建設事業へ招いていくことになります。
1.異邦の王に、おごらずに素直に助力を求める
まずソロモンが協力を呼び掛けたのはティルスの王フラム(ヒラム[歴上14:1]・原典の誤写と推測される)でした。「あなたは父ダビデに協力を惜しまず、父の住まいとなる王宮の建築のためにレバノン杉を送ってくださいました(2節)」と、父ダビデとの親交の深さにまず触れ、感謝を伝えます。
歴上第14章に記される、ティルス王がダビデに莫大なレバノン杉と技術者を送った事実は、ダビデの王権が神さまによって認められたことを示す出来事と位置付けられています。「ダビデは、主が彼をイスラエルの王として揺るぎないものとされ、主の民イスラエルのために彼の王権を非常に高めてくださったことを悟った(歴上14:2)」。ダビデはティルス王の助力を、神さまがイスラエル全体を高めようとしてくださっている大きな恵みだと受け取ったのです。その仲立ちとなったティルス王ヒラムの存在は、ダビデの終生忘れがたいものだったでしょう。
ソロモンが生まれたのはこの「贈り物」の出来事の直後。記憶にはなかったでしょう。けれども王となったソロモンが、こうして真っ先にかつての「贈り物」への感謝を述べるあたり、ティルス王の「贈り物」の喜びを、神さまからの恵みとしてダビデから聞かされていたのかもしれません。
ティルスは異邦の国ですから、ヒラムは異なる信仰を持っている人です。けれどもダビデは、主なる神さまへの信仰の有無にかかわらず、交わりのなかに恵みを見出し、その人のことも大切にしました。このダビデの寛容と謙虚、そして篤い交わりを受け継いだからこそ、ソロモンはティルス王に対して、謙遜に、そして丁寧に助力をお願いすることができたのです。「この人は、たとえ同じ信仰者ではなくとも信頼できる」との安心感が、神殿建設に必要な技術者の派遣を素直にお願いし、ヒラムを動かす言葉を紡ぎ出したのでした。「わたしはわが神なる主の御名のために神殿を建て(3節)」るとの志を果たすために決して高ぶらず、また信仰の有無で線引きをすることなく協力を願う姿は、異邦の国で伝道する教会にとって、見るべきものがあるように思えます。
2.寄留民も「わたしのしもべ」と呼ぶソロモン
ソロモンがダビデの寛容を受け継いで、わけへだてしない心で神殿建設に臨んでいることは、動員している労働者にまつわることからもうかがえます。歴上第22章では、まだダビデが元気だったころ、神殿造営に必要な切り石を切り出す労働者を寄留民から募ったことが記されていました。1「父ダビデが人口を調べたように(16節)」、つまりダビデが生前すでに動員していた寄留民の数をあらためて確定し、かれらに着手を命じます。
ところで、歴上第22章でも触れましたが、この寄留民はイスラエルの純粋な民ではありません。モーセの頃は、十二部族に属していない民でありながら、荒れ野の旅路の一員として一緒に約束の土地に入った異邦人です。ダビデが寄留民をまず動員し、賃金を支払うようにしたのは、彼らの生活を守るためでした。さらにソロモンは、ティルス王が遣わす技術者たちと一緒に働かせ、ますます神殿造営に充実した思いを持たせようとしています。「わたしの家臣(オベド:“しもべ”とも訳す)とあなたの家臣と共に働かせ(7節)」るとヒラムに伝える言葉のなかには、寄留民も「わたしのしもべ」つまり自国民として受け入れている、ソロモンの分け隔てのない心が伺えます。「主の御名のために神殿を」建て上げるのですから、そこに無用の線引きをする必要はないのですね。そうして、神さまへの御用に異邦人も寄留民も招こうとしているのです。これも「神さまの尊い御名前のために一緒に働こうではないか」との呼びかけ、いわば伝道になるわけです。
3.主に仕える姿が、心に伝わるような「行い」
ソロモンの申し出にティルス王は快く答えます。もちろん、この申し出には「小麦、大麦、ぶどう酒、オリーブ油(14節)」と代価が伴っているのように思えます。ただしレバノン杉の伐採と技術者フラムの派遣という内容を考えますと、少し安価のようにも思えます。伐採作業は肉体労働です。小麦、大麦、ぶどう酒、オリーブ油は、いわば食べ物の材料。つまり労働者への直接の現物支給ですから、ティルス王の懐には一切なにも入りません。それなのに、「主はご自分の民を愛して、あなたをその王とされた。天と地をお造りになったイスラエルの神なる主はたたえられますように(11節)」とまで神さまを讃美するティルス王の心には信仰の種が芽生えています。これはダビデとソロモンと、二代にわたって重ねられた篤い交わりが、ようやく伝道の実を結んだように思えてなりません。分け隔てしない心と、素直に助力を求める親しさ、そして、それらすべてが決して私利私欲ではなく、まっすぐに天を見上げる清らかな信仰に用いられているとの潔い姿が、ティルス王の心を神さまに向けさせたのかもしれません。
ところでレバノン杉が贈られていく泊地に「ヤッファ(15節)」の名が出ています。港町ヤッファはイスラエル東海岸屈指の良港ですから、聖書にたびたび出てくる地名です。そしてこの港町で、ソロモンの時代からはるか後にも、イエスさまの福音を伝える使徒と異邦人の分け隔てをしない交わりがあったことを思い出します。
使徒言行録第10章は、ペトロがローマの百人隊長コルネリウスのもとに招かれた出来事が記されます。その直前、ペトロはヤッファで不思議な夢を見ます。ありとあらゆる獣を神さまに見せられ、それらを「食べなさい」と言われます。ペトロは「清くないものは食べられません」と躊躇しますが、そこにコルネリウスからの招待が届きます。ペトロは信仰深い異邦人コルネリウスの招きを聞いて、その夢の意味を理解しました。「神は人を分け隔てなさらないことが、よくわかりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです(使徒10:34,35)」こうしてイエスさまの名によってコルネリウス一家は洗礼を受けました。ペトロに託されたイエスさまの福音が「行い」を通して身を結んだのです。
主なる神さまはいつの時代でも、国、身分、分け隔てなく救いに招いておられます。神さまを見上げて一心に礼拝し、教会を建て上げる姿は人の心を打つのです。二代、三代と長い時間がかかっても、ヒラムやコルネリウスのように「天と地をお造りになったイスラエルの神なる主はたたえられますように(10節)」と、真に胸を打たれる信仰者が招かれていくことでしょう。教会を建て上げるために、主御自身が、働き人を動員するのです。
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