2020年7月29日祈祷会(歴代誌下第8章)
ソロモンの神殿の建設事業は、20年の歳月を費やすこととなりました。父ダビデが心を込めて準備してきたものをすべて用い、「主の神殿の定礎の日から、完成の日まで無事に遂行され、主の神殿は完全なもの(16節)」となりました。
大事業ではあるものの、ここまでのソロモンの功績は、いわばダビデが準備してきたもろもろの遺産によるものです。建築資材、設計図、労働力、他国の人脈、ダビデはあらゆるものをソロモンに遺していきました。さらには14節以下にあるように、レビ人たちの奉仕の順番すらもダビデが定めていました。
しかしダビデから受け継いだ神殿建設は達成されました。そしてこの第8章からは、ソロモンはダビデが遺したものに頼ることができない治世を始めることになります。ここからは、ソロモン自身の信仰がその業に現れてくる、そういう節目です。
その歩みの始まりにあたり、ソロモンはイスラエルの各地にさまざまな建造物を建てて行きます。町々、あるいは建物を建てること自体は、問題のあることではありません。ただ、ダビデが遺したものに頼らず、自らの信仰の実りとして神と人に仕えようとし始めたソロモンには、功罪はともかく、「神の人ダビデ」と言われる父の信仰とは異なるものが現れてきています。
1.知らぬ間に、戦に備えるソロモン危うし
ソロモンが建てあげた数々の建築事業には、目を見張るものがあります。「フラムから贈られた町を次々と再建し(2節)」「ハマト地方の補給基地の町をすべて築き上げた(4節)」「上ベト・ホロンと下ベト・ホロンを築き、ソロモンに属する補給基地の町、戦車隊の町、騎兵隊の町をすべて築いた(5,6節)」「彼女のために建てた宮殿(11節)」と、とにかく建てて、築きます(建てる:バーナー[בָּנָה])。
多くの建設事業ができるということは、その背景に莫大な経済力を必要とします。まさにソロモンの治世においてはそれが可能でした。彼の手元には、ダビデが遺したものばかりではなく、ソロモンの権威によって、これほどの建築事業を行うための財力、権力が集まっていました。
ところで、新しい町々を築くことは、そこに人が住まい、関りや交わりの場が設けられるのですから、平和な世を建てあげるためには、喜ばしい事業のはずです。しかし、ソロモンは、その平和な世を続けるばかりではなく、次の戦の準備もしています。「補給基地」と訳されたヘブル語は「ミスケノート(מִסְכְּנוֹת)」で、本来、要塞の町を意味します。戦争時の補給基地という意味でもあります。いわば、ソロモンは戦いに備えての基地を作っているのです。平和な世であるにも関わらず、次の戦争の準備をはじめています。いま、わたしたちの国もそのような流れを見せ始めています。先達が苦労して築き上げた平和でありながら、繁栄を肥大化させるがあまり、無用の戦争の備えをはじめています。せっかく蓄えられた財力が戦争の準備に用いられる危うさ。それは平和を願う思いに逆行するもののように思えてなりません。
2.戦いの日々にも主を讃え、責を負ったダビデ
それでは、父ダビデがまったく戦争をしない王だったかというと、決してそうではありません。むしろダビデのほうが「戦歴」という意味ではソロモンの及びもつかないほどの戦争を経験してきました。牧童の時、強敵ゴリアテに立ち向かってから、ペリシテ、アンモン、アラム、そして憎しみにかられたサウル王と次々と敵は攻め寄せ、彼の人生は戦争続きでした。
ただ彼の戦争は、周囲の国々が攻め寄せてくるなか、戦う力を持ち合わせていない弱い人々を守るために起こされたものでした。ダビデを頼って集まってきた寄る辺のない人々を守り、励まし、勝利してイスラエルに勝利と平和をもたらしたのです。そしてダビデは戦さのなかにあっても神さまに祈り、賛美をささげました。「神の人(14節)」と言われるゆえんです。しかも彼は、イスラエルに平和をもたらすために戦ったとしても、その責を神さまに問われ、神殿の建築成就の役目ははずされました。そこには、いかに平和と自衛のための戦争とはいえ、根本においては神さまが平和を望んでおられるお方であることが示されています。
このように、ソロモン王国の土台はすべて、主の民としての信仰を守るための戦いを戦い抜き、平和な国を築くために心を尽くした神の人ダビデによって備えられているのです。戦いの叫びが遠ざかったころに、平和に飽いた人間の繁栄は、次の戦いの理由を探し始めます。新しい建築事業に邁進するソロモンは、知らず知らずのうちに繁栄の魅力に後押しされて、奪うための戦争の準備をはじめているのです。そこには、平和を願う主の御心からの、微妙な遠ざかりが見え始めています。
3.主が建てて、主が住まうキリストの一つの体
こうして現れてきた父ダビデと、息子ソロモンの信仰の質、いわば霊性の違いは、どのようなものなのでしょうか。ソロモンが多くの町々や砦を建て、築くときに「建てる」(「バーナー」בָּנָה)ことに心を傾けました。その点、ダビデは「住む・宿る:ヤーシャヴ[יָשַׁב]」ことに心を傾けました。ダビデは建てあげるよりも、長く住まうことを喜んだのです。詩編にもダビデの霊性が現れています。「命のある限り、恵みを慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯そこにとどまる(ヤーシャブ)であろう(詩篇23篇6節)」「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り(ヤーシャブ)、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを(詩篇27篇4節)」
「建てる」と「住む」ことは、「器」と「中身(いのち)」に例えることが出来ます。主の宮を建てること、そしてそこに住むこと。いずれも密接な関係にあり、どちらも大切です。しかし、優先順位として考えるならば、ダビデの主の宮に「住む」ということが重要のように思います。「住む」ことは深い交わり、つまり「知る」ことにつながります。「知る」ことは、神と人との平和な、へだたりのない交わりであり、命そのものです。その意味では、ダビデはいのち(=永遠のいのち)という本質を、生涯かけて求め続けた「神の人」であったと言えます。一方、目に見える数々の建物は、平和を維持する戦略的基地として建てられたものです。王国のいろいろな領地にそれらを建てようとしたソロモンには、だれがイスラエルを守るのか曖昧になり始めている、という危うさがあります。「主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい(詩篇127篇1~5節)」主の御心を謙虚に聞き、交わりを喜ぶ信仰ではなかったようです。
宿るべきものが宿る「主の神殿が完全になる(16節)」のは、あらゆる隔てを壊すキリストが宿られたときでしょう。「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです(21,22節)」主が、いまの時代に築こうとされているのはキリストを宿す器です。それは、同じキリストの霊によって、礼拝のために一つとされるものです。主が建てあげて、宿ってくださる神殿ならば、むなしくなることはありません。
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