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2020年7月22日祈祷会(歴代誌下第7章)

神殿での最初の礼拝がおわりました。それぞれの生活の場所に帰って行く民の「心は晴れやか」です。これからは八日目にはまた集まって礼拝をささげることも約束されました。ついに、この神殿で一緒に神さまの御前に集まる生活が始まったのです。

ソロモンの夢に再び主は御姿を現されます。「この神殿で罪が悔い改められ、赦しを求めるかぎり、どうか聞きあげてください」とのソロモンの祈りに、主は「今後、この所でささげられる祈りに、わたしは目を向け、耳を傾ける(15節)」と応えてくださっています。ただ、そればかりではなく、この神殿が決して永久不変ではないことをもあらかじめ告げておられます。イスラエルの歴史は神さまが警告されたとおりに歩んでいくのです(紀元前587年、バビロン帝国によるイスラエルの捕囚と神殿破壊)。祝福される主の道と、警告されているイスラエルの歩みの違いはどこにあるのでしょうか。

1.悔い改めと罪の赦しの祈願に主が臨在する

まずソロモンの祈りの締めくくりから、祝福されている在り方を考えてみます。ソロモンが祈り終わったとき、神殿は再び栄光に包まれていました。「ソロモンが祈り終えると、天から火が降って焼き尽くす献げ物といけにえをひとなめにし、主の栄光が神殿に満ちた。祭司たちは、主の栄光が神殿に満ちたので、神殿に入ることができなかった(1,2)第4章でも雲が現れ、栄光が満ちて礼拝が中断しましたが、今度は火がくだり神殿に入ることすらできません。「イスラエル人は皆、火と主の栄光が神殿に降るのを見て、ひざまずいて敷石の上に顔を伏せ、礼拝して『主は恵み深く、その慈しみはとこしえに』と主を賛美した(3)まるでペンテコステを先取りするような出来事です。この光景を思い浮かべると、実際の火は降ってこなくとも、わたしたちも心からの礼拝をささげるとき心が熱く満たされ、慰めと平安に満ち溢れ、礼拝をささげることもままならないことが起きることを思い起こします。

霊の満たしは、讃美の歌声に現れていきます。「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに(כִּי טוֹב, כִּי לְעוֹלָם חַסְדּוֹ):キートーブ、キーハッセドー」この言葉を理由や経緯をしめす前置詞「キー」に注目して訳すと「主なる神さまが良い(美しい)お方だから、いつまでも愛してくださるから」となります。つまりこの讃美の歌声は「主が、悔い改めと罪の赦しに姿を現すお方だからこそ、わたしたちは礼拝ができます」という感謝の讃美でもあるのです。

罪の悔い改めと赦しの祈願を続けてたソロモン。その祈りが終わってから主は火をもってご臨在されました。主のご臨在、すなわち霊の働きは、肉の働きをすら中断させ、ただ神の啓示へと人を集中させます。それは「人の集中力」や「悟り」などではありません。神さまからの近づきによります。そして、そこにはまず罪びとの切なる祈りと悔い改めがともなうのです(放蕩息子のたとえ。言い訳ばかりを考えてグズグズしている息子に、父親は駆け寄って抱きしめる。)。ここまでソロモンと民が礼拝でしてきたことの通りです。神を讃美し、悔い改めと赦しの祈願する。そこに注ぎ出される心からの立ち帰りと執り成しの祈りに、神さまは御自身を啓示されるのです。それは「慰めと平安を賜る神が、わたしたちと共に居る」という確たる証なのです。

2.為すべきことと出来ることを見極めて捧げる

さて、感謝の讃美を導いたのは、ダビデが造った楽器でした。「祭司たち、レビ人たちも、主の楽器(複数形)を持って立った。ダビデ王が・・・作った(単数・男性)ものである(6)なんとダビデは、単身で礼拝に用いられる楽器を作り上げていたのです。きっと心を込めて神さまのための楽器を、弦を一張りひとはりしながら作ったのでしょう。それは、与えられた賜物を十分に神さまに生かす、心からの献身です。為すべきことと、出来ることを弁えた奉仕です。

ソロモンの導きによる神殿奉献も同じです。「ソロモンは主の神殿と王宮を完成し、この神殿と王宮について、行おうと考えていたすべての事を成し遂げた(11)ダビデから受け継いだものを正当に見極め、自分が王として、つまり神さまによって選ばれ、召し出されたところに従って、成し遂げたものです。ソロモンに示される模範は、王としての権威や、優れた知恵ではありません。それらはすべて神さまから与えられたものです。そうではなく、みるべきところは自分に課せられた使命を見極め、それ以上でも、それ以下でもなく、すべてをささげたところです。

なすべきことを見極めるための祈りは大切です。そうでないと、余裕があるときは傲慢になり、自分自身に不満をもつと、与えられないことへの不満と卑屈に心が満ちてしまいます。神さまは、その人に出来うることしか命じておられません。そのための賜物を確かめ、本当に、今、すべきことを神さまから示されるように願う祈りは、御心に適う道を歩むためには必須です。

3.場所が足りないほどの奉献。わたしたちは?

霊に満たされ、心からの讃美を捧げるソロモンたちは、備える場所にささげられないほど捧げものをしています。「ソロモンは主の神殿の前にある庭の中央部を聖別して・・・供え尽くすことができなかった(7)献身のしるしが、満ち満ちています。なるほど!それは「心は晴れやか」にもなるというものです。納得!

彼らの姿に「わたしたちは、本当に彼らほどに献身のおもいを捧げられているだろうか」と考えてしまいます。もしソロモンの第一神殿が破壊されることもなく、今も残っていれば、わたしたちはエルサレムに何度も礼拝に行くしかなかったでしょう。ところが「彼らを抜き取り・・・この神殿もわたしの前から投げ捨て・・・かつては壮大だったこの神殿に『この地とこの神殿に、主はどうしてこのような仕打ちをされたのか』と問うであろう(22,23)第二神殿すらも破壊されたエルサレム。「嘆きの壁」でいまもユダヤ人は神殿再建を祈願しています。同じ神さまをあがめながらも、彼らにとっては、ナザレのイエスは預言者の一人。このお方を、神の独り子にして罪の贖いであり、神の啓示そのものであり、生けるみ言葉とは信じていません。

しかし、わたしたちにはエルサレムの神殿がなくても罪の赦しを願い、赦されることがはっきりと示されました。十字架に主のご栄光を顕されたとき、信じない者たちがあたまを振って「救えるものならば、救ってみよ」と罵倒しました。そこには自分で自分を救うことのできない、無能力という意味での罪深さが示されています。けれども、そのときこの方は「悔い改める者を執り成すキリスト、まことの救い主を自ら見出せない罪」すら背負ってくださったのです。犠牲であると同時に、執り成しもしてくださる方が、礼拝に名を置く隅の親石、つまり信仰の土台であることを示してくださったのです。このお方の御執り成しにより、ようやくわたしどもは、悔いし砕かれた、魂を捧げることができます。すでにイエスさまが御身をささげてくださったからこそ、捧げ物の場所はもう十分に満たされているのです。

ですから今や、献身のしるしは、罪の赦しの条件ではありません。そうではなく、赦されたものが、さらに聖なる者とされている栄光の歩みです。神さまとの関係においては、とても晴れがましい、明るい歩みになっているのです。それは、わたしたちの生き方すべてに及びます。主の御心にのみ生きる自由を、人生のすべてにおいて与えられたとも言えるでしょう。キリストの御執り成しに悔い改めながら、罪に裁かれることなく、一瞬一瞬を悔い改めて(向き直る)生き方。そこには確かに生ける神殿、聖霊なる神さまとの交わりの場があるのです。

 

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