2020年8月12日祈祷会(歴代誌下第10章)
ソロモンの次の王、レハブアムの治世がはじまりました。しかし残念なことに、王国が南と北に分裂する兆しが描かれていました。レハブアムの強がりが北の部族を怒らせています。自分に同調する同世代の意見にばかり耳を傾ける彼の狭量には現実味があります。こうして王国の統一はすぐに壊れはじめてしまうのです。ただ注目したいのは、レハブアムが、ヤロブアムら北の部族たちの反感を招いたのは、神さまの御心だったというところです。
1.自分と同じ意見の若者に相談するヤロブアム
レハブアムへの労働の軽減嘆願に、代表として立っているのはヤロブアムです。列王記上第11章によれば、彼は預言者アヒヤによって北王国の建国を預言されます。そのことがソロモンに露見しヤロブアムはエジプトに逃げます。歴代誌は、経緯の詳細について列王記にすっかり任せています。諸部族の代表として現れるヤロブアム。ただしヤロブアムの交渉は、レハブアムにとって代わろうという野心的なものではありません。労働と税の軽減を求めているのであって、ダビデ家の治世そのものへ反旗を翻すのではないのです。このときのヤロブアムの手続きは正当なものだと言えます。
一方、レハブアムには自分を誇示したい欲求があったようです。「わたしの小指は父の腰より太い」つまり父ソロモンよりも、もっと偉大だと思われたかったのです。ある意味、元気のよい若者です。よく言えば、父以上の王になりたいという向上心を持っています。向上心がなければ大事を為すことはできません。それだけに、ソロモンより大きなことを為したいというならば、レハブアムはこの北の部族の意見に、もっとよく耳を傾けるべきでした。
訴えを預かり、長老と若者に助言を求めます。そして若者の意見を選択するレハブアム。「彼と共に育った若者たちは答えた。『あなたの父上が負わせた重い軛を軽くせよと言ってきた民に、こう告げなさい。『わたしの小指は父の腰より太い。父がお前たちに重い軛を負わせたのだから、わたしは更にそれを重くする。父がお前たちを鞭で懲らしめたのだから、わたしはさそりで懲らしめる』(10,11節)」この若者たちの助言を聞いて、レハブアムはそっくりそのまま語っています。「若者たちの勧めに従って言った。『父がお前たちに重い軛を負わせたのだから、わたしは更にそれを重くする。父がお前たちを鞭で懲らしめたのだから、わたしはさそりで懲らしめる』(14節)」ここがレハブアムの残念なところです。向上心はあるのに独創性がありません。若者たちの意見は、労苦、税を軽くしたくないというものでした。つまり、ソロモン以来の歳入が途絶えることを惜しみました。次に「さそりで懲らしめる」と強がっているように虚勢を張っています。そして、長い歴史を見てきた長老の意見を軽んじ、自分が見てきた世代の言葉だけを信じます。この若者たちは、ソロモンの栄華におぼれて、豊かさばかりを追い求める世代になってしまったのかもしれません。
ある憲法に関する講演で、大学教授の演者が「現代の若者の特徴は『今だけ、金だけ、自分だけ』」と言っていました。そのとおりと思いつつ、ただ、これを現代の若者を批判するだけの言葉として聞くことはできないと思います。レハブアムは「自分と共に育ち、自分に仕えている若者たちに相談した」そして語られるまったく同じ言葉。レハブアム独自の言葉がありません。価値観が同一のものとばかり群れると、狭い考えに陥る恐ろしさがのぞいています。自分に賛成する人を探して、その人だけと付き合う、異論を恐れる狭い生き方です。それでは自己批判と向上が失われます。「保守か、革新か」という対立ではすまされません。終末へ向かう不可逆の時の流れに対する謙遜が喪失されてしまいます。現代を絶えず批判して未来に備える力を失うのです。悲惨の反復という全人類的罪悪が生じるのです。
2.レハブアムの愚かさも計画の為に用いる神さま
しかしこれらを超えてなされるのが神さまの御業です。「こうなったのは神の計らいによる(15節)」エジプトのファラオの心も神さまは頑なにされました(出エ11:10)。交渉の決裂は、レハブアムが起点ではありません。神さまの御心によるものでした。
実は長老たちにしても、レハブアムに勧め忘れている大事なことがあります。それは、ダビデ、ソロモンがそうであったように、謙虚に神にまず祈ることです。傲慢でも、妥協でも、そのどちらも主を礼拝するための民の結合は得られません。神さまが礼拝のためにわたしたちを一つにしておられる、という御心への傾聴が、すべてに優先します。
レハブアムを通して、分裂させる神の御心が示されました。それは、いわばレハブアムの愚かさが神さまに用いられたということでもあります。ソロモンには知恵が与えられ、やはり神さまがそれを用いられました。神さまは、人の賢さも、愚かさも、ご自分のご栄光を示すために遍く用いられるのです。
3.一つとなることを拒む民を神さまが結ぶ
イエス・キリストの十字架以降、わたしたちには神の愚かさが示されています。「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです(1コリ1:21)」ここには神の言葉が人を通して語られるという、畏れるほどの憐みが語られています。破けや裂けのある人の言葉に、神さまがご自分の言葉を委ねられている、という神さまの尊い謙遜です。それは「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています(同23節)」神御自身が、裂ける痛みと無力を示されたのです。
レハブアムは最後まで愚かでした。18節、力で抑えようとハドラムを遣わすが石で撃ち殺され、恐れて逃げかえります。彼には統一のために命を懸ける意思はこれっぽちもありませんでした。けれども、これほどに怒り高ぶる人間を、神さまは力で押されるのではなく、最愛の御子イエス・キリストを遣わしました。人間は遣わされた御子を十字架のうえで引き裂きました。神を見上げる民として一つとなることを拒んだのです。レハブアム的な背信はいつも、わたしたちを襲います。すなわち、自分が聞きたい意見に身をゆだねる生き方です。しかし先に述べたように、それでは同じことを繰り返すだけなのです。
教会に「日本の敗戦観」というものがあるならば、神ならざるものを神とした結果、人間の尊厳が破壊しつくされた人類の悲惨の提示ではないかと思います。礼拝を離れると、人は神のようにふるまいます。その途端、同じことを繰り返す悲惨に嵌ります。分裂の痛みを自分のこととして、悔い改めることができないからです。レハブアムのように自分の聞きたい意見を聞くばかりでは、自己吟味と真の向上の機会を逃してしまいます。
キリストの体が裂かれるとき、痛みが思い起こされます。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです(同25節)」。キリストの体が裂け、痛みが生じるとき、わたしたちは、人の傲慢が、あるいは卑屈が、どれほど無意味なものであるかを知らされます。異論に耳を傾けることのできない非寛容は、人を結び付けず、共に生きるものとしません。その悲しみを知る時に、神さまが、そのような人間にキリストの体なる教会を委ねられた謙遜に与ることとなります。互いに謙遜であって、互いに支え合い、イエス・キリストの一つの体として、共に生きていることが、じつに神さまの御心に適っていることに気づかされるのです。
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