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2020年9月2日祈祷会(歴代誌下第12章)

ソロモンが四十年に渡って長期政権を打ち建てこともあり、レハブアムの在位期間は十七年と父ほどには長くありません。しかしその短い在位のなかで、王国が南北に分裂し、エジプトが攻め込んで、神殿の宝物が奪われます。レハブアム王と民が律法を捨てたからです。神さまに背を向けて過ごす生の脆さを示されるようです。イスラエル王国の減退に現れる「地上の王国」の衰亡の出来事を、背きへの裁きと報いとしてのみ受け止めるのではなく、8節にあるとおり「地上の王国」と「天の王国」に住まうことの違いをも見出し、それを福音として聞き取りたいと思います。

1.引き起こされる災厄のなかにも主のみ旨がある

この章で人生を終えるレハブアム王の信仰の歩みを14節は短く語ります。「彼は心を定めて主を求めることをせず、悪を行った」前章で預言者シェマヤが語る主のみ旨を受け止め、北の諸部族への戦争を取りやめ、防備を固め、賢明に行う王になっていく霊的成長を聴き取ったばかりだけに残念です。

「レハブアム王の治世第五年に、エジプトの王シシャクがエルサレムに攻め上って来た。彼らが主に背いたからである(2節)」エジプト王シシャクの侵入は、レハブアム王が悪を行ったことによって起こされた最大の災厄であり、報いでした。南王国は、レハブアム王が成長し、内政に集中したことで国は安定しました。しかしその生活の安定が、神さまを軽んじる心を生みます。神さまとの救いの約束である律法を捨てたことが、周り巡ってエジプト王シシャクの侵入を引き起こしたと記しています。

シシャクの侵入はエジプト側の記録にも遺されています(カルナック碑文、紀元前925年「ファラオ・シシャクの遠征と勝利」)。北王国のヤロブアムが、ソロモンのもとを逃れて保護を求めたのも、この王でした。イスラエルの肥沃な大地を羨み、虎視眈々と侵略の機会を狙うシシャクにとり、ヤロブアムの逃亡は、イスラエルは近々、分裂すると予測する一つの材料だったかもしれません。

しかしながら「地上の王国」を統べる王たちが、レハブアム王のように安穏とすれば信仰を捨て、またシシャクのように自分の利を求める野望のままに侵略をする姿は、目に見える繁栄に支配されているようにも思えます。彼らは支配しているようで、じつは実利に支配されています。そう考えると、エジプト王シシャクは、律法を捨てたレハブアム王と民に、厳しく裁きをお示しになるために、主に用いられたということにもなります。そこで2節は「彼らが主に背いたからである」と、主がシシャク王を用いられたと、端的に語るのです。

信仰に陰りがさし、救いの恵みを忘れてしまうとき、主は確かに目を注ぎたまい、立ち帰るために御心をお示しになられます。「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません(一ペトロ4:12)」そのときに引き起こされる事象はさまざまです。わたしたちは謹んで「これは神さまが気づかせるためになさったのではないだろうか」と思い巡らし、立ち帰るきっかけとして受け止めることができるでしょう。

2.失われた金の盾に、背きの痛みを思い起こす

シシャク王の支配は、このときアフリカ大陸北部に及んでいました。今のリビアやエチオピアにあたる国々からも徴兵し大軍勢で押し寄せました。このとき南王国に残ったユダとベニヤミンの領土には、あらかじめレハブアム王が防備を備えた諸都市があり、そこに王子たちを司令官として配置していました(歴下11:12,23)。しかしエジプトの勢いに、落とされます。まだソロモン王から幾年も経たないうちに神殿も荒されます。

この報いを受け、レハブアム王の心には「主にへりくだる」心が生まれました。これは「王がへりくだったので、主の怒りは彼から離れ、彼が徹底的に滅ぼされることはなかった。ユダにも良い事があった(12節)」とあるように、御心に適うことでした。このレハブアム王と民の「へりくだる思い」が、シシャクを用いてでも示したい、主なる神さまの御心だったのです。火のような試練にも必ず理由があると言われるとおりです。

レハブアム王はここでも霊的成長を見せます。奪い去られたソロモン王の金の盾の代わりに、青銅の盾をもうけました。そして礼拝のたびに衛兵に持って来させ、それを目に焼き付けたのです。これは、自らが起こした背信によって、何が起こされたのか、たえず思い起こすことです。彼はこのときはじめて、祖父ダビデが歌っていた讃美歌の意味を思い知ったでしょう。「あなたに逆らう者を災いに遭わせて滅ぼし、あなたに従う者を固く立たせてください。心とはらわたを調べる方、神は正しくいます。心のまっすぐな人を救う方、神はわたしの盾(詩編7:10-11)」。金の盾がなくなったことにより、背信は主の堅い守りを失うという真実を、痛悔の念をもって思い起こしたでしょう。

3.たとえ道を誤ったとしても、主を求める信仰へ

彼は心を定めて主を求めることをせず、悪を行った(14節)」たしかに「心を定めて主を求めること」には困難が伴います。けれども、レハブアムとわたしたちにとって決定的に異なることがあります。わたしたちは、心が定められない弱さを知ることによっても、主を求めることができるのです。

青銅の盾を礼拝のたびに見ることで、レハブアム王は主に対するへりくだりを示しました。このとき、王はへりくだりながら、背信の犠牲をも思い起こしたことでしょう。エジプト王によって落とされた諸都市には、彼の王子たちと民がいました。派遣した自分の王子たちが討ち死にし、民も多く犠牲となりました。その犠牲によって、王家とエルサレム神殿は滅びを免れました。だから青銅の盾は、犠牲による救いをも思い起こさせたはずです。レハブアム王は青銅の盾を繰り返し見ることで、自らの背信による犠牲の痛みを忘れることなく、たえず思い起こして礼拝する信仰を与えられたのです。

それは、わたしたちにも大いに通じる信仰です。「イエス・キリストを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです(Ⅱテモテ2:8)」わたしたちはキリストにあって、試練の厳しさを思い起こし、犠牲を思い起こします。なおかつ、復活を果たしてくださったという救いへの約束、つまり新しい契約が揺らぐことのない堅いものであると知らされます。復活に至るまでのキリストの試練と、犠牲を、合わせて思い起こすのです。そこに、主に立ち帰り、主に信頼し、主に救われたことを喜ぶ信仰が与えられます。多くの恵みも与えられ、さらには小さな恵みにも大きく気づくことができます。

安穏とした生活は、試練と犠牲を忘れさせることがあります。主なる神さまがどれほど愛てくださっているか。キリストの死と復活に、その愛を示しておられるか、忘れてしまうのです。だから、イエス・キリストの死と復活を思い起こすことが「主へのへりくだり」になるのです。み言葉に聴き、パンとぶどう汁の食卓を囲んでイエス・キリストを思い起こす。そのたびに、み旨に沿わない歩みがあっても、主を求める歩みに引き戻されます。これぞ地上の国とは異なる、「天の御国」のご支配の豊かさです。心は十字架にぴったりと定まっていきます 。

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