2020年11月1日主日礼拝
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前奏
招詞 ヨハネの黙示録第7章9-10節
讃美歌 152
主の祈り
信仰告白 日本キリスト教会信仰の告白
讃美歌 55
聖書 マタイによる福音書
第24章45-51節(新49p)
祈 祷
讃美歌 377(1,2,4節)
説教『幸福なしもべたち』
祈 祷 三輪恵愛牧師
讃美歌 390
聖餐式
讃美歌 78
献金
頌栄 25
祝祷
報告
後奏
※使用される聖書と讃美歌
日本聖書協会『新共同訳』
日本基督教団出版『讃美歌21』
聖書 マタイによる福音書第24章45-51節
「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。 はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。 しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
説教『幸福なしもべたち』三輪恵愛牧師
1.「あなたは幸いである」人をそう祝福し、宣言できるのはイエス・キリストのみ
わたしたち人間が「これは幸せだ」と思えるものは、じつに多種多様。それぞれの尺度にあわせて幸福を実現することが当然だと思うのです。しかし聖書は、人の恣意的な幸福の基準に相対して、真実を語ります。「あなたのことを『幸いである』と祝福し、宣言するのはイエス・キリストのみである」ということを。「あなたは幸いである」それは神さまの祝福と宣言にあって、初めて語れることなのです。
2.忠実で賢い僕とは?定めの時に食卓を備えること「言われたとおりにしている僕」
二つの僕(しもべ)の在り方を比べることで、主が幸いを宣言しようとなさっています。「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである(46節)」主人が不在のときも、言われたとおりに「時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実な賢い僕」それが祝福される幸福なものたちだと言われます。では、悪い僕はどうでしょう。「主人の帰りは遅い」と思った彼は主人の言葉を侮ります。任された務めを果たしません。仲間をないがしろにし、仲間が空腹なのに、自分の腹を肥えさせ、それが幸福な生き方だと思いこんでいます。「忠実な賢い僕」「悪い僕」どちらになりたい?と問われ、どちらを選ぶかはそれほど難しい答えではないでしょう。では幸いな僕となるために、なにを命じられているのでしょうか。「忠実で賢い僕であるためには?」迷ってはなりません!「時間通りに彼らに食事を与えさせる(45節)」ように主はお命じになりました。今朝、主が備えてくださった食卓をどうかしっかり御覧ください。教会は「主が定めた時に食事に与る」ところなのです。
3.「言われたとおりにするあなたがたは幸いだ」定めの食卓は主の教会にこそあり
「厳しく罰し(51節)」は「散り散りに引き裂く」とも訳します。主が命じられたことを忘れていく教会は形を保つことはできません(1コリント12章)。定めの主の食卓(聖餐)がなくなれば教会は命を失います。主人の帰りを待つどころではない、すでにそこに裁きがあります。しかし「言われたとおりにしているのを見られる僕は幸い」です。それは「神が永遠にともにいる」という幸福です。主の食卓には主の死が現れているからです。またそこで主の復活にも与ります。キリストと共に死に、キリストと共に復活する命を受けるのです。それが神の宣言する幸福です。主人はご自身の命を忠実で賢い僕に任せます(47節)。この朝も幸福なしもべたちが言われたとおりにしています。食卓に備えられたキリストの命、パンとブドウ汁を共にいただく幸福です。
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