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2020年10月7日祈祷会(歴代誌下第17章)

世界のはじまり『創世記』から、イスラエル王国が滅亡する『バビロン捕囚(B.C.587年:神学生のとき“怖ないよ(587いよ)、バビロン捕囚”で覚えました。ちなみに『捕囚解放』はB.C.538:“こ土産に(538げに)バビロンの土”)』までを総括した歴代誌は、他の歴史書とたびたび記述が重なります。しかし、歴代誌しか記していないところもあります。注目しているところは、すでにお伝えしてきたとおり、エルサレム神殿での礼拝と、それに仕える南王国の正統性です。南北分裂の時代になると顕著に違いが現れます。北イスラエル王国に関する記述が少なく、南王国の王様についての記述が増えます。

ダビデ➡ソロモン➡レハブアム➡アビヤ➡アサと来まして、6代目のヨシャファト王(“ヤー・シャーファット”「ヤハウェは裁いた」)の時代になりました。ヨシャファト王については、とくに列王記と異なります。列王記では、ヨシャファト王は即位した後(列王記上第15章)はしばらく聖書に登場せず、北イスラエルの王についての記述の中で、わき役のような位置づけで再登場します(列王記上第22章)。それにくらべ、歴代誌でのヨシャファトは詳しく描かれ高評価を得ています。彼は35歳で即位して25年間、治めました(歴代誌下20:31)。その間、南王国は「主はヨシャファトと共におられた」と言われる王に導かれて、善い歩みをしました。その名のとおり、主の御名において善い裁きをした王です。

1.善い王様に貢ぎ物をささげる民の喜び

 アビヤ、アサと同じように彼も偶像を取り除いていきます。どれだけ取り除いてもはびこる偶像に、わたしたちの心にも、いくら取り除いても、神ならぬものを恐れて、頭を下げてしまう弱さと、偶像が人間を支配しようとする誘惑の薄気味悪さを感じます。アビヤ、アサと同く偶像崇拝を取り除くヨシャファトですが、彼ならではのことも記されているので、今日はそこに注目します。まず、一つ目はヨシャファト王に民が貢ぎ物をしているところです。「主は彼の手にある王国を固め、ユダのすべての人々はヨシャファトに貢ぎ物を贈ったので、彼は大いに富み栄えた(5節)」王に対する貢ぎ物は、民主主義の時代に生きるわたしたちにはまったく馴染みのないものです。「人間、みな平等」を大切にするならば、貢ぎ物は民から権力者から搾取しているように思えます。

 「貢ぎ物(ミネハー)」は「ギフト」や「献げ物」とも訳されます。カインとアベルが神さまに捧げたとき(創世記4:3)は献げ物、ヤコブがエサウと仲直りするときは贈り物(創世記32:14)と、文脈によって変わります。その本質は、相手への好意の表明です。「あなたが好きです。あなたとは仲良くしていきたいです」という気持ちを表すことです。ユダの人々にとっては、ヨシャファト王の歩みは「主が共におられる」好ましいものでした。王は愛されていたのです。そこで、ユダの人々はヨシャファト王に貢ぎ物を献じ、その好意と尊敬を表しました。

 「貢ぎ物」が好意と尊敬を表す行為ならば、わたしたちも愛するお方へ、そのようにするのではないでしょうか。わたしたちの歩みを導いてくださるお方に、全幅の信頼を寄せて尊敬の意をこめて、贈り物をします。捧げるということです。わたしたちにもそのような王がいます。イエス・キリストです。

改革派教会には「キリストの三職」という考え方があります。ぜひ暗記してください。①祭司、②預言者、そして③王です。①と②はなじみやすいと思いますが「王たるキリスト」とはどいういうことでしょうか。はい、キリストは王なのです。この方は天の国(神の国)の一切の権威を委ねられました(マタイ28:18)。キリストには地上のものは逆らえません。そのおつもりがあれば、天の軍勢で地上を滅ぼすこともおできになります(マタイ26:53)。それなのに人として貧しく生きられました。キリストの王権に早く気づいたのは東方からの三人の学者です。貧しい姿でお生まれになった幼子イエスさまに黄金、乳香、没薬の貢ぎ物をします。わたしたちも貢ぎ物をします。王の側から満ち溢れる恩恵を与えてくださったからこそ、御前に良いものをささげます。ヨシャファト王に貢ぎ物がささげられ、王国がますます豊かになっていくところに、王たるキリストのお姿が重なります。

2.神さまを、ますます知って、信仰揺るぎ無し

 次に、ヨシャファト王は「教育(ラーマド)を命じます「彼は・・・ユダの町々で教育を行わせた(7節)」。「訓練」や「学び」とも訳されます。これは一般知識を義務教育のように教えたということではありません。任命された人々が巡回して、主の律法の書を携えて教えます。聖書を携えて、その意味するところを教え回ったのです。伝道と同じです。王国といえども、教えてあげなければ、み言葉をきいても、なにをどのように信じるかがわかりません。それを丁寧に教えるようにヨシャファト王は命じました。

 み言葉を学ぶことは、とても大切なことです。とくに改革派は「神奉仕としての知的生活(J・H・リース『改革派教会の伝統』)」を重んじます。感覚や感情のみで信じる信仰は、その時の心のおもむきにすぐ左右されて、それこそ偶像崇拝に信仰を根こそぎ持っていかれてしまいます。試練に弱い信仰になります。神さまを認識するにあたり、有効な手段は、順序を立てて、系統に則り信じることです。改革派教会は冷静な知識をもって主を知ることも、喜びの恩寵として大切にしました。わたしたちの信仰告白では、これを『信徒の訓練』とも言い表します。主を知る知識に満たされますと、多少の困難に見舞われましても、慌てふためくことがありません。信じ方を忘れたときは、学びなおせばよいのです。繰り返しみ言葉の恵みに触れるたびに、もっと深い、心の底からわきあがる「ああ!神さまに愛されていることがわかった!」と、揺るぎない信仰に育てていただけます。

3.王たるキリストのもとに一つになって戦う教会

 み言葉の教育を受けますと、神さまを知る知識が豊かになります。「神さまに寄り頼む」という意味での自負が出てまいります。それは高慢になるという意味ではなく「神さまに支えられている」という安堵感です。三つめは、このことで周辺諸国は恐れて(10節)、南王国は、戦士や勇士が増えていくというところです(13-19節)。

 「戦士や勇士が増えるなんて、戦争の準備ではないのか」と反論が聞こえそうですが、そこは旧約ならではの、神の国の示し方として受け止めましょう。侵略するための戦士、勇士ではありません。神さまに用いられて、悪や罪や、偶像と戦う信仰の戦士たちです。み言葉の教育を受けたからこそ、与えられる役目です。主に委託を受けたヨシャファトが行うのですから、いわば主からのお召し上げです。「主に進んで身をささげた」というように、もう物で表すには足りずに、人生すべてを主にささげて、信仰の戦いを続ける戦士、勇士が起こされていきます。

 「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者に脅されてたじろぐことはないのだと(フィリピ1:27-28)」キリストの霊は、主を知る知識に満たしてくださる霊です。わたしたちを一つにしてくださいます。虚しいものを信じさせる諸力に打ち勝つには、み言葉を聴いて祈って信じて、主を知る知識に満たされる以外にはありえません。それは信仰安堵につながる恵みです


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