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2020年9月16日祈祷会(歴代誌下第14章)

第四代アビヤの治世は3年で終わりました。彼の事績は第13章のみ記され、すぐに次の王、第五代アサ王の治世に移ります。「アサは、その神、主の目に適う正しく善いことを行った(1節)」と始まっているように、アサ王の姿を信仰の模範として伝えようとしています。父アビヤ王は、北イスラエルとの戦いで危機に陥ったとき、主に助けを叫びました。その子アサはさらに整った祈りにより、救いを求めています。戦いのさなかにあっても「わたしたちの神、主よ、わたしたちを助けてください」アサ王の心は戦いを前にしてもなお整い、父アビヤ王以上に安らぎのなかにあったようです。

1.主を求めるアサ王が与えられたもの

アサ王が即位の後に手掛けたことは「取り除く」ことと「建てる」ことでした。取り除いたのは「異国の祭壇、聖なる高台、石柱、アシェラ像、香炉台(2,4節)」列王記上第14章の並行記事には、2代前のレハブアム王が異国の神々を置いたと記されています。その影響が残っていることをアサ王は悔い改めたのでしょう。主なる神さまを礼拝する心の妨げになるものは徹底的に取り除いていきました。

2節と4節に繰り返されているものは「聖なる高台」です。偶像礼拝に用います。物を拝む行為ですが、原理的には憧れの姿を造った像に投影して拝むものです。聖なる高台は、バベルの塔同様、自らが神のように崇められ、高められたいと願う心の投影です。自己陶酔の願望でもあります。神さまの方には、目を閉じ寝ているも同然です。アサ王は高ぶりを取り除き、身を慎むように民を導きます。

その代わりに建て上げたのは「塔」です。これも高台と同じく人が登るものです。似たようなものに思えます。どうして高台を取り除き、塔を建て直したのかと思います。明白な違いがあるのです。塔は、自分が高ぶるために上るのではなく、見張りの人が上るものです。目を覚まして天を仰ぎ、災いの近づきをいち早く知るためのものです。高台とは、似て非なるものです。アサ王は、自分に酔いしれ高ぶるための聖なる高台を取り除き、代わりに目を覚まして災いを見抜き、主を求めるための塔を立てました。詩編127編の歌は讃美歌(『21』では159番、ジュネーブ詩編歌より)にもなり、よく知られています。「主が建てなければ、家建てるものの労苦はむなしい。主が守らなければ、都市守る者の、労苦はむなしい(1番)」。高ぶりを取り除き、目を覚まして見張る塔を建てること、これがアサ王がまず手掛けた「主の目にかなう正しく善い行い(1節)」でした。

2.安らぎのなかにあってこその祈り

 アサ王の導きのもと、しっかりと守りを固める南王国に、南から災いが迫ってきます。クシュ(エチオピア)が百万の大軍で攻め上ってきました。これにたいしてユダとベニヤミン、南王国五十八万の軍は劣勢です。アサはクシュ軍を迎え、マレシャは今の西海岸ガザとエルサレムの中間にあります。すわ両軍激突の直前に、アサ王は祈ります。「アサは彼の神、主を呼び求めて言った。『主よ、あなたは力のある者にも無力な者にも分け隔てなく助けを与えてくださいます。わたしたちの神、主よ、わたし たちを助けてください。わたしたちはあなたを頼みとし、あなたの御名によってこの大軍に向かってやって来ました。あなたはわたしたち の神、主であって、いかなる人間もあなたに対抗することができません』(10節)」父アビヤ王は北王国の軍勢に囲まれたとき救いを求めて叫び声をあげました。それも主の聞かれるところです。アサ王はさらに整った言葉で祈ります。二代を経て、霊的な伸長が見られるようにも思います。また、この祈りの安らぎが、高ぶりを取り除き、霊的に目を覚まして主を求めた実りのようにも思います。

アサ王の祈りの言葉のなかでも心に留めたいと思うのは「主よ、あなたは力のある者にも無力な者にも分け隔てなく助けを与えてくださいます」です。高ぶりのない謙遜な言葉だと思います。これを一人の人に重ねれば、人生の移り変わりをも踏まえているようにも思います。人には力ある時もあり、無力な時もあります。主はそのときに応じて助けを与えてくださるお方だと証しています。高ぶりを取り除き、目を覚ましつづけて主を求めるアサ王に相応しい祈りだと思います。アサ王の祈るとおりです。人の外側について言えば、強くなるときもあれば、弱くなるときもあります。富、健康、地位、外側の状況はつねに移り変わります。それでも主は分け隔てなく助けてくださるお方なのです。

「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です(フィリピ4:11-13)」パウロはこのように牢獄の中から書き送りました。外側は虜にあっても、信仰においては目を覚まし、平穏だったからこその言葉だと言えます。主が与える平穏です。アサ王の治世も平穏(4,5節)でした。安らぎ(6節)にあって祈りました。主に頼る平穏のなかで祈り続ける人には「いかなる人間もあなたに対抗することができません(10節)」との確信が与えられます。

3.目覚めのときも、眠りのときも共におられる主

 いっぽう、寄せ手のクシュ軍はさんざんに打ち破られ、かえって南王国に益をもたらすこととなりました(14節)。クシュ軍には主の恐れが襲いました。主御自身が、主に頼る者のかわりに戦ってくださったからです。クシュが攻め寄せたのには、わけがあります。彼らはレハブアム王のころにエジプト王シシャクの傭兵として従軍しました。そのときレハブアム王はまだ弱く、シシャクに負け、多くの戦利品を奪われました。クシュはその二番煎じを願ったのです。侮って攻め寄せるものには恐れが襲います。かわりに、高ぶることなく主に頼る人は、主に守られます。主が恐れを取り除き、平穏のなかで祈り続けさせてくださいます。

 アサ王の事績から、高ぶりを取り除き、霊的に目を覚ましてくださる主が共にいることを証する箇所でした。恐れを前にして、なお祈る姿をイエス・キリストは示されます。「杯を取り除いてください。しかし御心が行われますように」と祈る傍らの弟子たちは寝ていました。この姿を見られた主は「立て、行こう」と呼び掛けられます(マタイ26:36-46)」弟子たちを守るために、御自分の果たすべき務めに行かれます。主に頼るものを守るためです。この主の祈りにより、わたしたちは平穏のなかで祈り続ける者とされています。

「目を覚まし、身を慎んでいましょう。 眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。しかし、わたしたちは・・・身を慎んでいましょう。神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです(Ⅰテサロニケ5:6-11)」

主は目覚めさせてくださいますし、眠っている時も共にいてくださいます。高ぶりを取り除き、目覚めて主を求める魂に、主がともにいて、平穏と祈りの言葉を与えてくださいます。


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