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2020年10月28日祈祷会(歴代誌下第20章)

「ヨシャファトは三十五歳で王となり、ユダを治めた。彼は二十五年間エルサレムで王位にあった。・・・ 彼は父アサの道を歩み、それを離れず、主の目にかなう正しいことを行った(31,32節)」生涯の終わりに改めてヨシャファト王の信仰の歩みが語られています。歴代誌下第17章、即位したヨシャファト王は父より受け継いだ熱心な信仰そのままに、民に教えを広めます。第18章では北イスラエル王と手を組んだことでアラムに敗北し、神さまからの怒りを示されます。第19章では、預言者イエフの言葉を聞き、過ちを糺されながらも、善いところを認められ、再起します。信仰の熱心、過ち、挫折、そしてみ言葉による再起と、ヨシャファト王の信仰の歩みには、わたしたちの姿もよく重なるところが多いのではないでしょうか。そして、ヨシャファト王の生涯の終わりを記す第20章では、迫りくる難事によって、ヨシャファト王は祈りの人へと建て上げられていきます。

1.恐れで散り散りになった心を祈りに集中させる

「人々が来て、ヨシャファトに『死海のかなたのエドムから大軍が攻めて来て、ハツェツォン・タマル、つまりエン・ゲディにいます』と告げると、 ヨシャファトは恐れ、主を求めることを決意し、ユダのすべての人々に断食を呼びかけた(2,3節)」モアブ、アンモンたちが大軍で北上していくる知らせをうけ、恐れるヨシャファト王は民に断食を呼びかけ、共に祈ることにします(6節)。なぜ、祈るために断食が必要なのかと思います。断食をなさったことがある方もいるかもしれません。断食は忙しくて食べられない、食欲がないから食べられない、というものではありません。敢えて、食べたくても食べない、ということです。食べる、ということは、普段は命を満たすために当然行っていることです。これを中止すると、わたしたちを飢え、渇きます。そのことで、なにによって満たされているか、ということに気づきます。そして、わたしたちを満たしているものへの求めに気づくのです。

ヨシャファト王たちが断食をした理由は、3-4節に三度繰り返されるとおり「主を求める」ためです。自分を普段満たしているものを遠ざけて、主を求める思いへと自らを集中させていくのです。そして、祈ります。主なる神さまへの思いを整えてから、祈るのです。

祈る前に自らを整え、備えることについて、宗教改革者ジャン・カルヴァンは著作『祈りについて』でこう語ります。「さて、祈りを正しく適切に捧げる法則の第一は、神との対話に入る者に相応しく精神と魂を整えること以外にない。すなわち精神に関しては、神を正しく純粋に直視することから背かせたり連れ去ったりする肉の煩悩と種々の想念を払い落とすことである。そして一切を祈りに集中させるのみでなく、できる限り自分を越えて高められるようにし、またこれに没入するのである(祈りの法則:4節)」カルヴァンは同時に「これらのことが完全に守られなくても祈りは聞かれる」と譲歩しています。けれども大切なことは、聖なる神さまに語り掛けるにおいて、あわただしく、心が散り散なままで、何を祈っていいのかわからない心の常態では恵みを受けとることが出来ない、つまり、神御自身が祈りの人に建て上げよう賭してくださる慈しみを知るために心を整え、神を求めることに集中するということです。ヨシャファト王がここでしていることは、断食による欲求の遠ざけ、そして主を求める祈りへの集中と心の整頓だと言えるでしょう。

2.祈りのなかで神の確かさと自己の無力を認める

6節からは、ヨシャファト王がエルサレム神殿で会衆の前に立ち、祈った言葉が記されます。彼はまず、主なる神さまがどのようなお方であるか、自分が置かれた境遇に基づいて、呼び掛けます。「異邦人の国をすべて支配しておられるではありませんか(6節)」と、北上してくる敵を見据えながら、この敵をも支配する神さまのお姿を的確に語ります。自分が祈ろうとしていることと、神さまのお姿のどのようなところが関わっているかを言明します。

次にヨシャファト王は、神さまが契約に基づいて民を守るお方であることを思い起こします。「この地をあなたの友アブラハムの子孫にとこしえにお与えになったではありませんか(7節)」創世記第17章7-8節に記される「アブラハム契約」を想起しています。神さまは友と呼ぶほどに親しく交わったアブラハムに「あなたの子孫と契約を結び、カナンの土地をすべて与える」と約束されました。神さまは聖なる、義なる方であるがゆえに、契約を破ることがありません。ヨシャファト王はそう信じて、神さまに訴えます。「契約を守ってください!」と祈ります。

そして最後に、この災いは自分の落ち度ではないことを語ります。「わたしたちの神よ、彼らをお裁きにならないのですか(12節)」申命記第2章に記されている、アンモン、モアブ、セイルの人々を神さまが「エサウの子孫だから攻め滅ぼしてはならない」と命じられたことによります。ヨシャファト王は「わたしたちは約束を守りました。だから助けてください」と言うのです。祈る時、悔い改めることが多いと思います。しかし、わたしたちには「良いところ」もあります。それは「神のみ言葉に従った」という意味での良いところです。神さまのみ言葉に従ったからこそ御心から離れずに歩むことができた、という感謝です。このことも、ヨシャファト王は忘れません。

3.恐れを抱くことも、祈りの人を起こすために

 主を求め、祈るヨシャファト王は、最後に「わたしたちはなにをすべきかわからず、ただあなたを仰ぐことしかできません(12節)」と祈って終わります。無力さを訴えます。しかし、この無力さを認めたところに、み言葉が語られました。会衆の一人ヤハジエルに主の霊がくだり、神のみ言葉が語られるのです。そして、主御自身が戦いを戦ってくださり、ヨシャファト王とその民は、ただ主の救いを見る幸いに与りました。

祈りに集中したヨシャファト王が、神さまの契約に頼り、み言葉によって歩んできたことを思い起こし、自己の無力を認めます。そこに、み言葉が語られ、救いの出来事が起こされていきます。このヨシャファト王の姿に、神さまがたえず、信仰者を祈りの人に建て上げようとしておられることを知らされます。このときヨシャファト王に与えられた恐怖は、まさしく主を求める祈りを祈り、救いの出来事が起こされる時を忍耐をもって待つ、そのような祈りの人に建て上げるためにもたらされたのでした。

再びカルヴァン『祈りについて』からも引いておきたいと思います。「祈りを持続しつつ願いを一時停止して、忍耐強く主を待ち望むことを学ぶのは容易であり、たとえ我々の目には見えなくても常に主は我々の傍らにいまし、その時が来れば、人の目には無視しておられたように、見えた祈りにも耳を閉じておられたのではないことが明らかになると確信するのである。ここに最も現実的な慰めがあるのだから、気落ちしたり、絶望に打ちのめされたりしてはならない」わたしたちも、このように祈ることができます。わたしたちは主イエス・キリストの十字架による新しい契約に生きています。「神さま、あの契約を守ってください」と祈ることは、正しいことです。恐れで散り散りになった心を、聖霊に整えられながら祈りましょう。自分にも良いことがあったことを思い越し、キリストの契約にすがりましょう。神さまは祈りの人を起こされるお方なのです

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