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2020年11月15日主日礼拝

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(YouTube動画のリンクは、ライブ配信終了後、説教音声ファイルに差し替えられます)

前奏
招詞 詩編第95編6-7節
讃美歌 6
主の祈り
交読文 詩編第19編(交読詩編20p)
讃美歌 156(1,2節)
聖書 フィリピの信徒への手紙
第3章12-16節(新365p)
祈 祷
讃美歌 459(1,2,3節)
説教『忘れ得ぬ歩みのなかで』
祈 祷        三輪恵愛牧師
讃美歌 463
献金
頌栄 27
祝祷
報告
後奏

※使用される聖書と讃美歌
 日本聖書協会『新共同訳』
 日本基督教団出版『讃美歌21』

 

 

   フィリピの信徒への手紙第3章12-16節

わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。

 

 

説教忘れ得ぬ歩みのなかで三輪恵愛牧師

1.「過去の負い目は忘れるべきか、覚え続けるべきか」悩ませる問いを抱えて

 忘れられない過去を抱えて生きる。それはフィリピの信徒たちも、わたしたちも同じです。誰しも負い目があるのです。そして複雑な思いを抱きます。「過ちなどはさっぱりと忘れてしまい、美しい思い出だけに囲まれたい」と願う一方で「本当に忘れていいのだろうか。自分の言動に責任を取らない、傲慢な人間になりはしないだろうか」。過去の負い目を巡る考え方はどちらも正しく思え、わたしたちを悩ませます。

2.「なすべきことはただ一つです」揺れ惑うフィリピの兄弟姉妹へ断言するパウロ

 フィリピの信徒たちは、じつにこの2つの考え方の狭間に立たされていました。一方は「わたしは信仰者として完全になった(同1:28,3:2,18,19)」と罪を忘れ去って生きていきます。他方は「わたしはしっかり立てない、救いを達成できない(1:27,2:12)」と罪を忘れられず、自分を責め続けてしまいます。「どちらが信仰者として正しい在り方なの?」揺れ惑う兄弟姉妹に向けて「なすべきことはただ一つです!後ろのものを忘れて、前に向かって走り続けなさい」パウロはただ一つ筋の道を示します。

3.十字架の愛を知りたくて・・キリストに捕らえられた信仰者は今日も走り続ける

 「わたしは既ににそれを得たというわけではなく、既に完全なものとなっているわけでもありません(12節)」パウロですらまだ到達していません。走り続けています。「キリストに捕らえられているから(12節)」です。イエス・キリストを捕らえること。それは「神の子がどうして十字架に架かり、死んで復活するほどにわたしを愛してくださったのか」いつも問い、その愛の深さを知り続けることです。この点においては、知ったつもりになる、つまり完全になることは誰にも出来ません。たしかにパウロはその前のところで自分の罪についても触れています(同6節)。しかし過去の過ちこそ、もっともキリストが愛してくださった瞬間。それはもはや負い目の記憶ではありません。十字架のゆえに、負い目は「後ろのもの」として忘れてよいのです。ただその過去があったから「今もキリストはわたしを捕らえてはなさい」救いの真実は、現在のキリストとの交わりに集中させます。だからますますキリストを捕らえたいのです!「十字架の主よ、どうしてそれほどわたしを愛してくださったのですか」そう問い続けるとき、わたしたちは確かにキリストに捕らえられています。負い目だと思っていた後ろのものを忘れて、わたしたちは主なる神に向かって走り続けているのです。

 

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