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2020年10月21日祈祷会(歴代誌下第19章)

列王記も歴代誌も、それぞれの王の評価を生涯の事績より前に書き始める点では同じです。「ヨシャファトの心は主の道にとどまって高められ、彼は聖なる高台とアシェラ像をユダから取り除いた(歴下17:6)」ところが前章では、主に背き続ける北イスラエル王国のアハブ王と手を結び、アラムに戦いを挑みました。命からがらエルサレムに逃げかえったヨシャファトにとって、この敗北は大きな信仰の挫折でした。しかしヨシャファトはこの挫折で心が折れるのではなく、かえってますます善い業へと歩みを進めていきます。

1.再び立ち上がらせるために「良いことを見る」

「先見者ハナニの子イエフは、ヨシャファト王の前に進み出て言った。『悪人を助け、主を憎む者の友になるとは何事ですか。そのため、主の怒りがあなたに下ります(2節)』」先見者ハナニを覚えているでしょうか。第16章で晩年のアサ王に戒めを語り、投獄された預言者です。父の堅い信仰が、息子に引き継がれていたようです。王と言えども信仰の過ちには容赦をしません。「悪人」「主を憎む者」と言われる北イスラエルのアハブ王と手を組んでしまったことは、やはり主が喜ぶことではなかったのです。ヨシャファトはたしかに信仰の過ちを犯したのです。

しかし、イエフの預言はヨシャファトを責めるだけでは終わりません。「しかし、あなたには良い事も見られます。あなたはこの地からアシェラ像を除き去り、揺るぎない心で神を求めました(3節)」「良いことを見る」ここに、イエフがヨシャファトに施す「魂への配慮」が見られます。信仰の歩みには、必ず過ちがあります。自分を中心に考えるがあまり選択を間違います。無知のゆえに、主に背く人の企みに躓きます。過つこともある信仰者が立ち直るためには、このように「良いことを見る」まなざしが必要なのです。それは、すべてを見通しておられる主の憐みのまなざしです。

「揺るぎない心で神を求めました」ヨシャファトはアラムの軍隊に取り囲まれて、命を奪われそうになったときに救いを叫びました(歴下18:31)。イエフはその叫びを「揺るぎない心で神を求めました」との言葉に込め、認めています。「揺るぎない心」それは「必ず主が救ってくださる、その愛を信じる」という意味での揺るぎなさです。イエフの言葉は、再起のために良いところを認めて、人を活かすものです。悪いところを裁くばかりではなく、その人の「良いことを見る」のです。そして、言葉にして伝えることが、再び立ち上がるためには必要なのです。

2.挫折から再び立ち上がる姿は民を立ち帰らせる

ヨシャファトは、信仰の挫折があったにも関わらず、再び立ちあがります。「ヨシャファトはエルサレムに住んでいたが、再び出かけて民の中をベエル・シェバからエフライムの山地まで巡り、彼らを先祖の神、主に立ち帰らせた。(4節)」ここにイエフの父ハナニを投獄したアサと、ヨシャファトの大きな違いがあります。ハナニの言葉を聞いても最後まで立ち帰らなかったアサ。その父の晩年をヨシャファトは、心を痛めながら見ていたかもしれません。だからこそ、イエフの言葉を素直に受けとめて、主の道を歩みなおします。

「再び出かけて」これは、ヨシャファトが王位についてから3年目に、すべての町々に祭司を遣わし、み言葉の学びを広めたことを受けています(歴下17:7-9)。かつて教えを施したはずの王本人が、預言者の叱責を受けるほどの信仰の過ちを犯してしまいました。王という地位に威を借りて、過ちを認めず、自分を中心に考え続けることも出来たはずです。しかしヨシャファトは再び出かけるのです。そして「人の為にではなく主のために(6節)」と、神中心の裁きを広げていきます。彼は信仰の過ちに泥むことをしません。この「再び」が大切なのです。「再び出かける」もう一度、一から始めなおすのです。

ペトロを思い出します。彼の信仰の挫折は想像を絶するものでした。愛するイエスさまを十字架に見捨てました。しかし「わたしの羊を飼いなさい」と、改めて召し出され、使徒としてイエス・キリストの十字架と復活を伝えました。信仰の挫折があればこそ、伝わる福音があります。これが主の厳しい諭しを受けながらも、再び立ち上がらせていただく恵みです。「民の中を巡り・・・主に立ち帰らせた」。立ち直った王が自ら民のなかを歩み、み言葉を語ります。挫折から再び歩み始める姿が、民を導くこととなります。

3.キリストの霊が聖なる者となる道を支える

ヨシャファトは、自分が信仰に迷い、神さまの怒りを招いたことを自らの教訓として、国中に裁判官を立てました。これは律法による裁き人ですから、世俗法でいうところの裁判官とは異なります。原語はショーテフィーム(שֹֽׁפְטִ֜ים)「士師」と同じ言葉です。「裁く」という意味のシャーファットから派生した名詞です。律法によって、正しいことと誤っていることを明らかにする人です。そう言えば、ヨシャファトの名も「ヤハウェは裁いた(ヤー・シャーファット)」と「裁き」が名前に含まれていました。

「あなたたちの兄弟が自分の住んでいる町からあなたたちに訴え出るときはいつでも、それが傷害事件であれ、律法、戒め、規定、掟に関する問題であれ、彼らが主に罪を犯して、怒りがあなたたちと兄弟たちの上に降りかかることのないように、彼らを戒めなさい。このように行えば、あなたたちが罪を犯すことはない(10節)」 ヨシャファトが自分の名前にも込められている「主の裁き」をこれほどまでに重んじています。自分自身も、主と共に歩む道すがら、過ちを犯したからです。そしてみ言葉を聴いて再び立ち上がることが出来たからです。主のために裁きを行う人たちが正しく裁きを行えば、主は怒りを発されることはありません。この裁き人たちが担う役目は、主なる神さまと人びとの和解を取り持つことです。仲直りの仲裁をするのです。

教会の奉仕の業も、そこに集中します。信仰の過ちは、聖書のみ言葉において正当に裁くことが必要なのです。その人が主の御心に耳を傾けていないからです。独りよがりの生き方をしているからです。しかし、それを裁くだけで終えてはいけません。「良いところもある」と認めて、砕かれた魂を再び立たせてあげなければなりません。そうして互いに、魂の配慮を重ねて、主との義なる交わりを深めていくのです。教会は神と人の和解のために、主イエス・キリストのお名前によってと他者に仕えているのです。

ヨシャファトには主の怒りが置かれていました。キリストの信仰者は、その怒りを全身で受け止めてくださったイエス・キリストの十字架のゆえに、聖なる者として生かされています。

T・ウィルキンソン『ウェストミンスター信仰告白《註解》』の「聖化」の項目で、著者は「聖化は、信者の≪性質≫ではなく、キリストを通して与えられた、神との関係での≪身分≫を指す。キリスト者は、たとえ道徳的、霊的な観点からはその行動において非常に高度な聖性を示さなくても、彼ら以前にかつてイスラエルがそうであったのと同じく、今や「聖徒」と呼ばれる」と説き「(あなたがたは) 主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています(1コリント6:11)」を証拠聖句として掲げます。すでに救われた信仰者は「聖徒」でありながらも、途上の存在であることを認めます。

「(裁きを)勇気をもって行え。主が善を行う者と共にいてくださるように。」ヨシャファトの祝福の言葉には、自分自身の過ちもイエフに正しく裁かれたからこそ、再び立ち上がったという確信が込められています。信仰の歩みのなかで与えられる挫折と再起。それは十字架の贖いによって救われ、キリストの霊を受けて聖なるものとされていく、正しい道程なのです。

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