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2020年10月14日祈祷会(歴代誌下第18章)

「主はヨシャファトと共におられた(歴下17:3)」と評価される第6代ヨシャファト王は、南ユダ王国の人々に神さまのみ言葉を伝え、町々を築いて、豊かな国にしていきます。一方、北王国はこのころ、どのような歩みをしていたのでしょうか。「先祖の神を求め、その戒めに従って歩み、イスラエルの人々のようには行わなかった(歴下17:3)」とあるので、ヨシャファト王が導く南ユダ王国のように、主と共に歩むものではなかったようです。北王国は偶像を置き、バアル礼拝を行い、信仰を捨て去るような国になっていました。預言者エリヤ、エリシャが対決したアハブ王やイゼベル女王が北王国を支配したのもこのころです。ヨシャファト王はそんな北王国と姻戚関係を結びます。サマリアを訪問し、友好な関係を築いていきます。ヨシャファト王には南北の協調が主の御心に適うと考え、そのようにしたのだと思います。そのように歩む彼に、主は「主の言葉を求める(4節)」ための一つの大きな試練を与えます。

1.主の言葉を求めるヨシャファト王

今日の箇所は列王記上第22章とほとんど一緒です。そのなかで2か所、異なる記述があります。その一つ目が1-2節です。「ヨシャファトは大いなる富と栄光に恵まれるとともに、アハブとも姻戚関係を結んだ。数年たって、彼がサマリアにアハブを訪ねると、アハブは多くの羊と牛を屠って、彼とその一行をもてなし、ラモト・ギレアドに攻め上ろうと誘った」この出だしにあたるところは、ヨシャファトの立場からの記述になっています。列王記上第22章は北イスラエル王国を支配するアハブの視点から描かれていました。この章は、南ユダ王国と北イスラエル王国が力を合わせてアラムと戦った様子を伝えるものです。はじまりをヨシャファトの視点に併せることで、歴代誌では、ヨシャファトの身におこった神さまの御業に注目させようとしています。

ヨシャファトとしては、アラムの圧迫を受けている北王国からの助けを求める声に聞こえましたから、信仰に照らして助けるべきだと考えたのでしょう。「戦うときには、わたしとあなたと一体、わたしの民はあなたの民と一体です」と、一つであることを強調します。「しかし同時に」ヨシャファトはこの共闘が本当に御心に適っているかどうか確かめたいと考えます。「まず主の言葉を求めてください(4節)」ヨシャファトの慎重な姿が示されています。この慎重な姿勢ゆえに、主なる神さまがなにをヨシャファトに示そうとされているのか、その予感を抱かせるものです。「一つになって戦うべきと、私は思う。しかし、本当にそれが御心なのだろうか。」判断がつきかねるときに、「主の言葉を求めようとする」、それが、このときのヨシャファトの信仰でした。

2.必要があれば唆す霊すらも遣わす主なる神

ヨシャファトの慎重な信仰によって、預言者の言葉を聞き分ける耳が備わっていたようです。北王国の王アハブは、アラムと戦をするにあたり、子飼いの400人の預言者を集めて語らせます。ヨシャファトを安心させるためでもあったのでしょう。列王記では、アハブ王はエリヤとの対決で450人の子飼いの偽預言者を失っていました。このときの預言者たちもアハブ王の言いなりになる預言者たちです。ヨシャファトが、彼らの全員一致した預言に怪しむ姿はさすがです。「ここには、このほかに我々が尋ねることのできる主の預言者はいないのですか(6節)」。400人は、神さまにではなく権力者アハブの支配のもとに生きることを選ぶ人達です。王の望む通りになんの異論も語らずに、それを神の言葉と偽って語る声をヨシャファト王は怪しむのです。

これに対し、召喚されたのがミカヤという預言者でした。「いつも災いばかり預言する」と、アハブ王から疎まれていたようです。彼ははじめは400人と同じようにアハブ王に同調する預言を語ります。ところがアハブ王はこれを聞き分けます。「何度誓わせたら、お前は主の名によって真実だけをわたしに告げるようになるのか(15節)」。アハブ王はミカヤの「攻め上って勝利を勝ち取ってください。敵はあなたたちの手に渡されます(14節)」との預言を真実ではないと感じたのでしょう。それは「神、主」と言う言葉が一切使われてないからです。ミカヤは主なる神さまに背を向けるアハブをすでに見限りながらも、「そうおっしゃるのであれば」とアハブに真実を語っていきます。

18-22節はミカヤが見たであろう幻について記されています。主なる神さまが御座に就き、天の万軍が左右に控える様は、さながらヨブ記の天上会議のようです。「ある霊が進み出て主の御前に立ち、『わたしが彼を唆します』」と申し出ます。すると主は「あなたは彼を唆して、必ず目的を達することができるに違いない(21節)」と言われるのです。アハブ王を唆すことを主が認めておられるのです!

3.信仰のためには、必要とされることを起こす主

ヨシャファトはこのとき「アハブ王と預言者ミカヤのやり取りの場にいた」と考えるほうが自然な解釈だと思います。ミカヤの預言を聞いて、ヨシャファトはどう思ったのでしょうか。この預言者は真実だと思ったか、それとも偽物か、ヨシャファトは何も語りません。きっと判断がつきかねたのだと思います。400人の預言と、ミカヤ独りの預言。ミカヤは主御自身が「唆す霊」の仕業を許しておられる。いったいなんのために?わからぬままに、ヨシャファトはアハブと共に戦列に並びます。

「いったい、主なる神さまはなんのためにそうされるのか」このような疑問は、信仰者の人生の歩みには、何度も何度も起こることでしょう。このとき、信仰者の立場は、神さまとの関わりのうえに立たされます。そして、それはいつも、その信仰者の信仰のために必要がことなのです。

ヨシャファトは偽りのない立派な信仰の持ち主で、この南北共闘は有意義なことだと思っていたのでしょう。一方、アハブは信仰がありません。彼は王の衣を脱いで、自分を偽って出撃します。しかし、アハブのほうが命を落とすこととなります。自分を偽らないヨシャファト王は、かえってアハブと間違われて命の危機に陥ります。しかし「助けを求めて叫んだので、主は彼を助けられた(31節)」のでした。これがもう一つの列王記と違う箇所です。ここに主が唆す霊を遣わしてまで、「まず主のみ言葉を求めてください」と、主に信頼するヨシャファト王をアハブと一緒に危険なところに向かわせた理由が明らかにされます。試練を通してヨシャファト王にますます主に信頼する信仰を持たせるためだったのです

ガリラヤ湖を渡るため、イエスさまは弟子たちを「強いて」舟にお乗せになったことがありました(マタイ14:22-33)。漕ぎ悩む弟子たちにイエスさまは近づかれます。ペトロは「主よ、あなたでしたら」と湖の上を歩こうとしますが嵐に恐れて沈みます。「主よ、助けてください」叫ぶペトロの手をしっかりとつかんで「信仰の薄いものよ、なぜ疑ったのか」と言ってご一緒に舟に乗ってくださるのでした。人生に漕ぎ悩み、どうふるまって良いのかわからないときも主はあえて試練を起こされます。「主よ、たすけてください」と叫ぶとき、主は御手を伸ばしてしっかりと私たちをつかみ、引き上げてくださいます。主に信頼して歩み続けられるようにと、必要なことは御心のままにすべて起こされていくのです 。

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