2021年1月3日主日礼拝
(YouTube動画のリンクは、ライブ配信終了後、説教音声ファイルに差し替えられます)
前奏
招詞 エレミヤ書第31章10-12節
讃美歌 12(1,2節)
主の祈り
交読文 詩編第147編10-20節
(交読詩編160p)
讃美歌 270(1,4,5)
聖書 ルカによる福音書
第2章22-35節(新103p)
祈 祷
讃美歌 255(1,2,3)
説教『慰めを待ち望む』
祈 祷 三輪恵愛牧師
讃美歌 268(1,3,4)
献金
頌栄 25
祝祷
報告
後奏
ルカによる福音書第2章22-35節
1.初めて会う老人が幼子を抱きしめて祝福する、微笑ましい出来事のなかで・・・
年が明けて、はじめて迎える日曜日は、降誕節最後の主日でもあります。クリスマスを見送る今日、シメオンという不思議な人に、幼子イエスさまが抱き留められる出来事が語られていました。ユダヤの慣習に従って、ヨセフとマリアが初子を献げるために神殿に上った先での出来事です。傍から見れば和ませられる風景かもしれません。ところがこのシメオンが語ることは「この子は反対を受ける。人を倒すが、立てる。お母さん、あなたの心は刺し貫かれますよ」と、喜ばしいことばかりではないのです。
2.神さまと深く交わり、民全体の慰めを待ち望む人に、聖霊がとどまっている
シメオンの人となりが25節に語られます。「この人は正しい人で信仰があつく-①、イスラエルの慰められるのを待ち望み-②、聖霊が彼にとどまっていた-③」①「正しく、信仰があつい」この[正しさ]は[義]とも訳されます。神さまとの深い交わりに生きる人です。②この人は、自分の慰めではなく国全体の慰めを願っています。多くの人々の心が回復することを祈り続けている人です。③神殿に詣でる、つまり礼拝を捧げ、神さまと交わり、国全体の心の慰めを祈り続ける人には、聖霊がとどまっているということです。シメオンに、わたしたちの信仰にも通じる姿が浮かび上がります。
3.イエスさまの御姿に心をあらわにされ、民全体の慰めを待ち望む人となっていく
傷ついた心は慰められなければなりません。「慰」という字義から、「心」に「火熨斗(ひのし)」を当て、皺を伸ばしていくことを思い浮かべる人もいます。聖書の「慰め」はさらに「傍らに招く(パラカレオー)」との意味を込めています。神さまが傍らに招き寄せるのです。傷ついた心に、神の愛の温もりを当てることだとも言えるでしょう。ただし、それは神さまの御心に緊密に近づくということでもあります。温もりを当てられるために、みずからの愛が乏しいところを神さまに向けなければなりません。「反対を受けるしるし」とシメオンはイエスさまの受難の生涯を予告します。愛の乏しさを示され「倒され」た人に、イエスさまは迫害を受けます。愛の乏しさ、すなわち慰められていない心の裏をあらわにされたからです。けれども、神さまの愛に温められた人こそ自分の慰めばかりではなく、民全体が神さまに招かれる時を待ち望む人とされていきます。「わたしを安らかに去らせてくださいます」救い主を抱きしめるシメオンは、待ち望んでいた世界の慰めを確信し、真実の平安に満たされていきます。« 2020年12月27日主日礼拝 | トップページ | 2021年1月10日主日礼拝 »
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