2021年1月10日主日礼拝
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前奏
招詞 イザヤ書第43章1節
讃美歌 148(1,2,3節)
主の祈り
交読文 詩編第28編(交読詩編29p)
讃美歌 50(1,2,3節)
聖書 ルカによる福音書
第3章15-22節(新106p)
祈 祷
讃美歌 277(1,2,3節)
説教『愛は裁きに優る』
祈 祷 三輪恵愛牧師
讃美歌 277(4,5,6節)
献金
頌栄 26
祝祷
報告
後奏
※使用される聖書と讃美歌
日本聖書協会『新共同訳』
日本基督教団出版『讃美歌21』
ルカによる福音書第3章15-22節
説教『愛は裁きに優る 』三輪恵愛牧師
1.新しい時代のさきがけに、洗礼者ヨハネは民衆に福音をつげ、洗礼を授ける
1月6日に公現日(エピファニ-)を見送り、イエス・キリストのご生涯を知る季節に入ります。「公生涯」とも言われ「イエスさまこそ救い主」との真実があらわにされる、新しい時代の到来を示します。今日のみ言葉は公生涯の始まりを伝えます。洗礼者ヨハネは、父ザカリアに「この子は救い主のために整った民を準備する」と預言されていました。その通りにイエスさまに先立って、民衆に福音を語り洗礼を授けます。
2.ヨハネの声を封じ込める、ヘロデの自己中心的な裁きは祝福されない
ヨハネは洗礼を授けるまえに、生き方に悩む人々の古い生き方の過ちを示し、神さまに祝福される生き方を示します(10-14節)。過ちを指摘して、新しい生き方を勧めるのですから、これは裁きです。しかし神さまに祝福される裁きです。神様に心を向けさせ、隣人への愛に目覚めさせるからです。やがてヨハネの声はヘロデに届きます。支配者であろうとも臆することなく、ヨハネはヘロデに悪行を改めるように説きます。しかし、ヘロデはヨハネの言葉を聞かず牢獄につなぎます。ヘロデは自分の正しさに頼り、生き方を改めることなく、その言葉を封じ込めるのです。これも裁きの一面です。ただし祝福されるものではありません。悪事を加える裁きです(20節)。生き方を改める言葉を聞かず、正しさを押し通すばかりの裁きは祝福されることはありません。
3.裁きの限界の時、救い主キリストの姿は現れ、神の愛に生かされる時代を開く
ヨハネの祝福される裁きが、この世の悪に封じ込められるのは実に残念であり、不可解です。しかしイエスさまはまさにその時にキリストとして御自身を現わします。ヨハネの声が封じ込められても、なお祝福の裁きを喜び、洗礼を続ける民衆のなかに現れるのです(21節)!民衆が洗礼を授け続けるなか、イエスさまは一人、祈られます。なにを祈られたのでしょう?ご覧ください。天が開きます。開かれた天から聖霊が降りてきます。見える姿で降りてきます。このとき、父なる神さまと御子なるイエス様が、ただ内面的な交わりのうちに救い主である生涯を始めたならば、聖霊も見える姿を取らなかったでしょう。しかし「鳩のように目に見える姿で(22節)」敢えて見られる姿を取られるのです。それは、父に愛され、聖霊の降りを祈り求める、この御子キリストの姿こそ、公にされるものだからです。祝福の裁きを喜ぶただ中にキリストは現れ、裁きに優る愛を注がれます。この姿に倣うすべての魂が「これはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」と宣言され、裁きを超え、神の愛に生かされるために。
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