2021年5月2日主日礼拝
説教音声
礼拝動画
黙祷
招詞 エフェソの信徒への手紙第5章14節
讃美歌 8(1,4)
主の祈り
聖書 テモテへの手紙二 第2章8-13節(新392p)
祈 祷
讃美歌 323(1,5)
説教『神の言葉はつながれていない』
三輪恵愛牧師
祈 祷
讃美歌 403(1,3)
報告
頌栄 26
祝祷
※使用される聖書と讃美歌
日本聖書協会『新共同訳』
日本基督教団出版『讃美歌21』
テモテへの手紙二 第2章8-13節
説教『神の言葉はつながれていない』三輪恵愛牧師 1.キリストの復活の真実が、神の言葉によって語られているという真理について 復活節の中、これまでキリストの復活の意味について聞いてきました。今日で一つの区切りとなります。これまで、キリストの復活が信仰の始まりであり、目標でもあり、そして試練を通して現在の信仰を証明するとのみ言葉を聞きました(過去、現在、未来)。今日はこのキリストの復活の真実が、わたしたちの信仰の始まり目標、現在とどのように関わるのか、「神の言葉」をめぐる真理について考えたいと思います。 2.神ご自身がご自分のことについて語るための言葉は「つながれていない」 「神の言葉はつながれていない」と語る使徒パウロは愛弟子テモテに具体的な牧会上(教会形成)のレクチャーのなかで、ふと思い出したかのように語ります。「イエス・キリストのことを思い起こしなさい(8節)」ここで語られることは指導者向けの特殊なことではありません。教会が形成されるなかで行われることはキリストを語るということです。11-13節は当時の教会における洗礼式の式辞です。中心に置かれていることは「キリストとは誰か」ということです。これが神の言葉です。神さまはご自身を語り伝えるために「イエスはキリストである」と語り続けます。いわば「自己紹介」を続けておられるのです。パウロはその言葉が「つながれていない」と語るのです。 3.ご自分を語る言葉「イエスはキリストである」を与えるほどに低きに下る神 「神の言葉はつながれていない」。それは「投獄されているパウロの負け惜しみでは?」「ロマンチシズムな弟子への遺言?」「言論の自由のようなもの?」でしょうか。神はご自分を語るためにご自分の言葉を語られます。「イエスはキリスト(救い主)」ということを語り続けられるのです。人間の言葉で「イエス」という存在を語ろうとする「理性的」な営みは繰り返されてきました。しかしある人の自己紹介を他人が代わりに出来るでしょうか?神ご自身がご自分の言葉でご自分を語るにあたり、人はまず聞くよりほかありません。これが信仰の始まりです。神の言葉を語る行為への弾圧や、人が自分で自分を語れなくなる不自由を貫いて、神は「イエスはキリスト、救い主です」と語る言葉のうちに生きておられます。ご自分を低きに下らせる神だからです。「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる(13節)」。自分自身のことすら満足に語ることも出来ないとしても、神はキリストを語る神の言葉をわたしたちに与えてくださいます。それが何ものにもつながれることのない、神の言葉です。神はご自分の言葉を与え、復活のキリストと信仰者の交わりを支えてくださるのです。 |
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