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2021年8月15日主日礼拝

 

(礼拝動画)

 

聖書:ルカによる福音書第94-50

説教:『心、主の名が広くする』 三輪恵愛牧師

1.「誰が一番偉いか」という理由の言い争いは恥ずかしくもあり、身近にあるもの

 弟子たちが「自分たちのうちだれがいちばん偉いか(46)と議論をしています。こんな理由で大の大人が互いに言い争うというのも恥ずかしいことのように思います。けれども「だれがいちばん偉いか」という理由は、わたしたちが言い争いをしてしまう時の本質を突いていると思います。その事柄はどうあれ、わたしたちは「自分こそが偉い」と思う時に言い争いをしてしまうからです。これまで「自分の偉さ」にこだわり、言い争そった経験があるならば、今日のみ言葉は悔い改めへと招くことになるでしょう。

2.自分の信仰の大きさを求める時、自分に従うことを他者に強要する心の狭さに陥る

では弟子たちは、いったい何を基準にして「偉さ」を競っていたのでしょうか?49節によると、ヨハネがイエスさまの諭しに対し、あることを語っています。イエスさまの諭しの言葉に納得がいかないのです。彼は「イエスさまの名を騙って『悪霊祓いをしている人』を見かけたので、やめさせようとした」と言っています。ヨハネにすれば「わたしたちの信仰こそが大きいのだ。わたしたちと一緒に行動しない人は認められない。」という思いになったのでしょう。しかしその思いはイエスさまへの信仰ではなく、「自分の正当性」に支配されています。苦しむ人を救おうとしている目的より、「自分たちと一緒に行動しない」ことを問題にして、その人の行いをやめさせようとするのです。

3.小さな魂に配慮し、仕えるようになることで、心はどんどん広くされていく!

キリスト教の歴史では、弟子たちと同じように「わたしたちと一緒に行動しない」ことを理由に、宣教を妨げることが起きました(朝鮮半島の教会への神社参拝強要)。自分たちの信仰の大きさを追い求めるあまり、魂の救いに仕える人の姿がわからなくなっていったのです。イエスさまは小さく弱いものを「わたしの名のために受け入れなさい」と言われます。受け入れるとは、その小さく弱い魂をしっかりと捉え、仕える、ということです。それが主なる神の御心だと言われるのです。小さく弱い魂に仕えることを通して、自分の信仰の大きさばかりを意識していた狭い心は広くされていきます。イエスさまも乳飲み子の姿で世に来られ、小さく、弱い姿にご自分の存在を顕しました。そして生涯の終わりには、十字架を背負いながら、苦しみ、弱さを抱えるお方となりました。神ご自身が、イエスさまの生涯において、痛み、苦しむ「もっとも小さな者」となったのです。イエス・キリストの名によって小さな者となり、その時代の小さな魂に仕えるとき、心は広くされていきます。主の名が、わたしたちの心を広くしてくださるです。

 

 

 

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