2021年9月5日主日礼拝
(礼拝動画)
(説教音声のみ)
ルカによる福音書第10章17-24節
1.七十二人の弟子たちは、イエスさまの名によって悪霊を屈服させたことを喜ぶ
ルカ第10章は、イエスさまが七十二人の弟子たちを村々にお遣わしになるところから始まっていました(1節)。その彼らが喜びながら帰ってきました。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します(17節)」と、彼らもイエスさまと同じように悪霊に勝つことが出来たというのです。これまでルカ福音書に記されていたように、悪霊は人々を支配し、あらゆる害悪をもたらしていました。イエスさま以外、誰もその力に勝つことが出来ませんでした。弟子たちは、その悪に勝つことが出来たと喜んでいるのです。
2.「喜び」を否定するのではなく、しかしその源が異なるところにあることを示す
喜ぶ七十二人の弟子たちの姿を前にして、イエスさまはどうされるかというと「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない(20節)」と言うのです。イエスさまは直前に弟子たちに、「サタンが天から稲妻のように落ちるのを見ていた(18節)」と言い、そして、あらゆる害悪を退ける権威を授けたとも言われます。これは「サタンや悪霊など、人に害をなすあらゆる悪は、天に勝つことが出来ない。だからあなたがたがわたしの名によって悪に勝つことは当然だ、それは本当の喜びの源ではない」と言われていることになります。そして「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい(20節)」と、こちらのほうこそが、あなたがたにとって真実の喜びの源となると示されます。
3.信仰は「成果」ではなく、神との生ける交わりとの中に。これがまことの喜び!
イエスさまは弟子たちの喜びを否定しているわけではありません。しかし喜びを感じるところを変えようとされます。イエスさまの名を用いたとしても、悪への勝利を喜びの源とすることは「成果を喜ぶ」ということになります。一方で「天に名が書き記されている」こととは天に属するものとされていること。つまり神との生ける関係性が結ばれているということです。これが喜びの源となるということです。それは成果に一喜一憂する信仰ではなく、継続する神との交わりを喜ぶ生き方です。成果主義の信仰は辛いものがあります。必ず喜べなくなる時が来ます。しかし神さまとの生ける交わりに生きる喜びは、成果に関わらず、今、神と、生きている関係性を結んでいる一点に望みを置きます。イエスさまご自身が22節で、聖霊によって喜びに溢れながら、父なる神さまとの交わりを讃美しています。「父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」このイエス・キリストの喜びが、わたしたちにとってのまことの喜びとなります。どのような悪の中でも主の喜びを我が喜びとして、幼子のように神と交わる人生へと招かれています。
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