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2021年10月31日宗教改革記念礼拝

(説教音声)

(礼拝動画)

 

ヨハネによる福音書第20章19-23節

19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 

説教 『教会は赦しを告げよ』 三輪恵愛牧師

1.復活の主が弟子たちにお命じになる言葉を聞き、罪について考えるが・・・。

宗教改革を記念する今日、復活のイエスさまが弟子たちに語られたみ言葉が与えられました。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る(23)」ここに「罪の赦しを告げる」教会の務めが示されています。しかし「罪」という言葉のまえに身構えます。「赦されるべき罪がある」ならば、どんな罪のことを言うのか。赦されるものとそうではないものがあるのではないか。そう考える余りに罪を探すことに疲れ、居心地の悪い思いが残ります。

2.恐れのあまりに戸を閉ざしてしまう弟子たちに、神との交わりを絶つ罪が現れる。

宗教改革の機運が高まる頃、教会は「個人の罪は告白されなければならない」と定め、信仰者に強要をしていました。そこに生じるものは「罪を裁くために探し出す」という意識です。さて、このとき弟子たちはユダヤ人を恐れ、堅く戸を閉ざしていました。そのユダヤ人とはイエスさまの生き方を否定し、十字架へと追いやった人々です。その彼らを恐れ、弟子たちは戸を閉ざしています。それは神がキリストの十字架に顕した愛の業にたいする否定でもあります。弟子たちは恐れのあまり、神の愛を忘れようとするのです。「罪」という言葉は用いず、神との交わりを絶つという最も恐ろしい罪が示されています。そこで、み言葉はイエス・キリストのお姿をこのように伝えています。「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち『あなたがたに平和があるように』(19)」。裁くためにではありません。平和を告げるために、復活の主は弟子たちの真ん中に立つのです。

3.裁くためにではなく、赦すために。探しぬく主に遣わされ、教会は赦しを告げる

恐れの真ん中に立つ復活の主は、弟子たちの罪を裁きません。「あなたがたに平和があるように」と語り、手とわき腹を示されます。ここに聖書が示し続け、決して変わることのない神の愛の姿があります。日頃の小さな罪に拘泥し、隠し通そうとするとき、わたしたちは交わりを絶ちます。人との、世界との、神との交わりを。そして神が罪と戦いぬく愛の業を忘れるのです。しかし主はその閉ざされた戸をやすやすと通り抜け、恐れの真ん中に立たれます。なぜでしょうか。イエス・キリストは人を探し求める神だからです。平和を告げることによって罪を赦し、罪の赦しを告げるために教会を、世に遣わすのです。「聖霊を受けなさい」とお語りになり、息吹を弟子たちに吹きかけます。これは新しい命の吹き込みです。裁くために罪を探し出すばかりでは、教会は務めに死んだままです。しかし主は赦すために人を探し続けるお方です。復活の主は罪の赦しを告げる群れを建て上げるため新しい命を吹き入れます。その主に遣わされ、閉ざされた魂を捜し求め、罪の赦しを告げます。そこに、務めを取り戻した教会が起こされるのです。

 

 

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