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2021年10月10日主日礼拝

(礼拝動画)

(説教音声)

ルカによる福音書第11章24-28節

24「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。 25そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。 26そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」27イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」 28しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」
説教 『神の言葉よ、宿りませ』 三輪恵愛牧師

1.母マリアを誉める声に、イエスさまは「神の言葉を聞き守る人が幸い」と言われる

群衆のなかにいた一人の女性が、やにわに「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は(27)」と、声高らかに言いました。イエスさまが語る言葉に耳を傾けてきた人です。その言葉に打たれて、生き方を変えさせられる体験をしたのかもしれません。わたしたちにもしばしば起きることです。「こんな素晴らしいことを語られる人を生んだ母は、もっと素晴らしい!」しかしイエスさまは穏やかに、たしなめるように言われます。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である(28)」。母への誉め言葉を喜ばない不孝な息子でしょうか。とんでもないことです!イエスさまは「神の言葉を聞き、それを守る人」をご自分の母よりも祝福してくださるのです。

2.神の言葉を「聞く」だけで終わってほしくはない、「守る人」となって欲しい

この女性の母マリアへの誉め言葉は、的を外したものだったのでしょうか。出来の良い息子を見て、その母を祝福する慣習はどこにでもあります。イエスさまが御認めにならないのは慣習ではありません。この女性も、群衆も、イエスさまの教えを聞いてきました。すでに神の言葉を聞く幸いな人たちです。わたしたちもその点は同じです。ただし、そこにとどまってほしくない、ということなのです。「神の言葉を聞き」で終わるのではなく「守る人」であってほしい。そこまで到達する人をイエスさまは祝福します。

3.人となられた神の言葉は、どのようなところもいとわずに宿られ、命となる

直前のたとえ話との強いつながりはここにあります。悪霊を追い出したあと、続けておられるたとえ話には、掃除をされ、整えられた家に、汚れた霊は仲間をつれて舞い戻り、さらに悪い状態になると言われます。なぜでしょう?そこに主(あるじ)がいないからです。この箇所の有力な原典写本には「空っぽ」という言葉が残っています。掃除され、整えられ、澄み切った内側となっても空っぽのままでは、再び異なるものの支配を受けてしまうのです。そうであってはいけない!神の言葉を聞いた人よ、わたしを宿したマリアを誉めるくらいならば、あなたがたこそ神の言葉をうちに宿し、守り続けてほしい。そして神の恩恵によってのみ救われる祝福にあずかって欲しいとイエスさまは願っておられるのです。神の言葉を何度も聞いてきました。一所懸命に守ろうとし、そのたびに守り切れない罪の深さを味わってきました。そのときにこそ貧しき人間の言葉まで降りられた主の恵みが輝きます。母マリアより生まれ、馬小屋に寝かせられ、恐ろしいゴルゴタの丘に登り、十字架に架かり、葬られた主が、どうしてわたしたちの内側に宿ることを厭われるでしょうか!?宿られる神の言葉こそわたしたちの命です。

 

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