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2021年11月7日主日礼拝

(礼拝動画)

 

(説教音声)

 

ルカによる福音書第11章37-44節

37イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。 38ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。 39主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。 40愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。 41ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。 42それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。 43あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。 44あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。」

 

説教『清くなるために出来ること』三輪恵愛牧師

1.招待された席で「招かれざる客」として振る舞うイエスさまの姿は理解しがたい?

 あるファリサイ派の人がイエスさまを食事に招待します。ところが「内側は強欲と悪意に満ちている」「あなたがたは愚かだ、不幸だ」とその場にいる人々に批判の矛先を向けていきます。「これらの言葉は後の教会が付け加えた」と分析する学者がいます。歩み始めた教会が、ユダヤ教に批判を加えるイエスさまの姿に励まされたのだと言うのです。けれども、そのような「イエスさまの厳しい言葉は敵対者にのみ向けられている」という聖書の読み方で、教会は本当に生き続けることが出来たのでしょうか!?

2.「正義の実行と神への愛」を外側に示すことで知る「内側と外側の一致」

内側は強欲と悪意に満ちている(39)と言われ「そこまでは酷くない!」と感じることもあるでしょう。しかしイエスさまはすぐに「外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか(40)と続けます。程度の問題ではありません。人間をお造りなった神の前では外側も内側も区別することは出来ない、という真理が語られます。内側で考えていることと、外側へと言葉や行いとして出てくるものに一致があるか否か、を問われるのです!そして「十分の一の献げもの」が取り上げられているのは、内側のものが外側に出てくる際に、一致と違いがもっとも明らかにされる事柄だから、なのです。

3.「正義の実行と神への愛」を完遂してくださった主イエス・キリストが一致に招く

「内側と外側が一致しているか」という問いは、ファリサイ派の人々と同じ立場に立たせます。どの点で一致を問われるのでしょうか?「正義の実行と神の愛(42)です。ここに内側が現れてくるのです。これは個人の問題として一目瞭然です。自分にしかわからないだけに明白です。「正義の実行」すなわち人への愛です。「神への愛」とともに、それを内側で願う心がどれほど外側に出てきているのか、そこを問われるのです。イエスさまがこれほどに厳しい言葉を語られるのは、本当はこのファリサイ派の人に招かれたくなかったからでしょうか。そうではありません!イエスさまは交わりを拒まれません。「食事の席に着く」お方です。真実に外側と内側が一致しているお方は、キリストのみです。身を清められない(38節)のは、その象徴的な行為とも言えます。そのお方がこうして誠実に、率直に語られる最大の理由は、神の御前にすべての人を招くところにあります。「内側と外側を一つのものにしていきなさい。神の御前に内と外が一致していくことは喜びなのだから!」こうしてイエスさまは、神の器として内側と外側が一致していき、清くされていく生へと、すべての人を招いておられるのです。

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