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2022年1月2日主日礼拝

(郡上八幡伝道所・説教音声)

※岐阜教会での説教の動画および音声は機材のエラーにより記録が出来ませんでした。

 

フィリピの信徒への手紙第2章5-11節

5互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。 6キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 9このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。 10こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、 11すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

 

説教「キリストからはじめよう」三輪恵愛牧師

1.教会が心を合わせ、思いを一つにするためにパウロは「キリストの従順」を歌う

 手紙の書き手、パウロは「互いにこのことを心掛けなさい。これはキリスト・イエスにもみられることです(5節)」と語り、6~11節に、初代教会が歌ったと言われる讃美歌を引用します。「自分を無にして、僕の身分となり・・・十字架の死に至るまで従順でした」。この讃美歌が歌い上げているものは「キリストの従順」です。第2章の始まりで、パウロは「互いを優れた者と思い、心を合わせ、思いを一つにしなさい(1-4節要約)」と勧めます。フィリピの教会では、人々がそれぞれ自分のことばかりを考え、他人のことに注意を払えないような間柄に陥ってしまっていたのです。しかしそれでは教会が「心を合わせる」こと、「思いを一つにする」ことは成り立ちません。そこでパウロはこの「キリストの従順」を歌う讃美歌を歌うのです。

2.「キリストの従順」とは人間に対する従順ではなく、神の御心に従順であること

 不安に思うことは「従順になることで、自分のことを我慢しなければならないのではないか。忍耐を強いられることとなりはしないか」ということです。パウロはその不安についても、この讃美歌の示すところに信頼しようと言っています。従順とは、何にたいしてのものか。「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました(9節)」神さまがキリストの従順を喜ばれたことが示されています。それは、キリストの従順がまったく神さまを讃えるために捧げられたものだったからです。「キリストの従順」とは人間の弱さ、惨めさ、脆さ、そして罪深さに徹底して伴うということです。そのためにイエスさまは「人間と同じもの」としてお生まれになりました。神に等しいお方が人間となられたということ。これはまったく欠けるところのない聖なる存在が、破けもあり、罪のある存在と同じところで生きる、ということです。そのお方が十字架への生涯を歩まれたということ。そこに神への従順が示されています。

3.弱さ、汚れ、罪深さを担い給うキリストの従順な姿がわたしたちを一つにする

 わたしたちは清らかなところ、正しいところ、喜ばしいところでは一つになることを好みます。反対に、汚れていること、弱いところ、惨めなところで一つとなることを避けようとします。しかしそれでは「神の御心のもとに心を合わせること、一つになること」は果たせません。だからこそ、キリストの従順を見るのです。そして、キリストであるイエスさまからはじめるのです。それはいつでも、はじめることができます。そしてはじめなおすことができます。わたしたちの弱さ、惨めさ、悲しさ、罪深さを共に担いあう、御心に適う交わりのなかに、キリストが僕となって生きておられるからです。

 

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