2022年1月23日主日礼拝
(説教動画)
ヨハネによる福音書第1章19-29節
説教「主を見た人が立てる証し」三輪恵愛牧師
1.四つの福音書に共通する、イエスさまの生涯の前に記される洗礼者ヨハネの記述
ほかの三つの福音書とくらべ異なるところが多いと言われるヨハネによる福音書。先週聞いたこの福音書の始まりにも如実に表れていました。では異なる書き方が続くかと言うとそうでもありません。今日の箇所は洗礼者ヨハネについて記します。イエスさまの生涯を記す前に、洗礼者ヨハネが登場する点はすべての福音書に共通します。ヨハネはここで「あなたはどなたですか(19節)」とファリサイ派に属する祭司やレビ人に問われます。その問いに対して彼は自分自身が何者かと答えていきます。これがヨハネによる福音書に記されている、洗礼者ヨハネの姿です。
2.ヨルダン川で罪の赦しの洗礼を施すヨハネは「あなたは何者か」と問われる
なぜヨハネは「どなたですか」と問われるのでしょうか。ヨルダン川で彼は洗礼を授けます。それは神の名による罪の洗い清めです。罪人はもとより、神の救いから漏れたと見做されていた異邦人も、そしてユダヤ人ですら。多くの人々が集まっていました。一方、祭司やレビ人を遣わしたエルサレムの人々には自負がありました。「わたしたちこそが神の正しさによって人を裁くものである」と。しかしその足元から人々が離れ、ヨルダン川での洗礼へと向かっていきます。彼らにはそれを施すヨハネに問い詰めるのです。「あなたは何者か、何の権限があって人の罪を赦すのか」と。
3.やがて来られる方を証しするものが見る、世の罪を取り除く神の子の姿
ヨハネは「わたしはメシアではない、エリヤでも預言者でもない」と答えます。そしてイザヤ書40:3『主の道をまっすぐにせよ』を引用します。「わたしはメシアではない」それはキリストではないということです。「わたしには自分を救う力も正しさもない。しかし今から来られる方のために道を整え、場所を譲るもの。御言葉を聞き、語り、その方を示すものに過ぎない」と「あなたは何者か」との問いにヨハネは答えます。イエスさまは、そのヨハネのもとに来られたのです。これを見てヨハネは言います。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊(29節)」こう語れたのは、やがて来られる方の道を整え、証し人としての生き方に徹したからです。彼が引用したイザヤ書第40章は「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる」と始まります。神さまはわたしたちの罪を裁くのではなく、赦し、慰めるためにキリストを遣わします。「わたしはこの方を知らなかった(31、33節)」と言うヨハネがイエスさまを見て、証しを立てていきます。「この方こそ神の子である(34節)」教会は神の慰めであるキリストのために道を整えます。罪の赦しのうちに慰めを見た人々が、神の子の証しを立てていくのです。
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