2022年1月16日主日礼拝
(礼拝動画)
(説教音声)
1.「初めに言があった」に思い起こす「光あれ」、イエスさまと世界の創造の関わり
今日よりヨハネによる福音書に続けて聞いていきます。その一番はじめのところを与えられました。福音書の初めですから、イエスさまの生涯のはじまりが記されているかと思いきや、そうではありません。「初めに言があった(1節)」この厳かな宣言を聞きながら、「これは創世記の一番はじめのところを語っているのではないだろうか」と思うでしょう。そこでは神さまが「光あれ!」と語られ、闇のなかに光が輝いたことを伝えます。神さまが語るたびに天が造られ、地が据えられ、水が集まり、生き物が生まれ、最後に人が造られます。神さまは語ることで創造の御業を行ったと伝える創世記に重なります。そこで「この福音書は世界の初めのことを思い起こしながら、イエス・キリストの生まれの意味を書き記そうとしているのだ」と見当がつきます。その通りです。この福音書はまず「イエス・キリストと世界の創造の深い関わり」を伝えているのです。
2.神さまの言(ことば)を受けれる人々を神の子とするために、世界は創造された!
「世界は人間のためにあるのでは?」という疑問はわくでしょう。しかし本当にそうでしょうか。「人間が世界の中心」との考えが、今や通用しなくなってきていると感じる人は少なくないと思います。この福音書は、神さまがお語りなる言(ことば)が世に受け入れられなかったと語ります(5,10,11節)。一方、受け入れた人は「神の子(12節)」となり「神によって生まれた(13節)」と証しをします。ここに神さまが世界を造られた最大の理由が記されます。それは神の子を新たに創造するためなのです!
3.「なぜ生まれて来たのか」との問いに「神さまに愛されるため」と聖書は答える
「ことば」は普段「言葉」と記されます。しかしここでは「言」と訳されます。原典が「ことば」を現す「ロゴス」の単数形を用いているからです。一つのことを指し示す神のことば「言」。その内に命があるのです。福音書を書き記した人は「主に愛された弟子(ヨハネ21:20)」と言われます。愛された確信のもとに「なぜわたしたちが生まれたか」神さまに示されたとおりに伝えます。神さまは、語られることばが指し示す、ただ一つの真実、イエス・キリストを信じ、永遠の命に生きるようになるため、神の子として生み出します。つまり、世界をお造りになったことばの力で人間を神の子とし、永遠に愛するため、イエス・キリストを世に遣わされたのです。「愛されるために生まれて来た」、主に愛された弟子は、神さまがわたしたちを愛するために命を与えると伝えます。彼はただ、神を語るばかりではありません。そのことばが示すイエス・キリストを、その命を、わたしたちはこの福音書から新たに聞き、信じるようにとの招きの詞も語るのです。
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