2022年2月6日主日礼拝
(説教音声)
ヨハネによる福音書第1章43-51節
43その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。 44フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。 45フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」 46するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。 47イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」 48ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。 49ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」 50イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」 51更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
説教『天へとのびる木の下で』三輪恵愛
1.「神の天使が昇り降りする」のを示すために、弟子たちは招きを受けている!
弟子の召命記事は、このイエスさまの言葉で終わります。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる(51節)」。「何を求めているのか(38節)」との問いかけでアンデレたち3人が弟子となり、フィリポとナタナエルが弟子となります。そして弟子たちが求めるものが51節で明かされていきます。人の子つまりイエスさまの上で、神の天使が昇り降りする有様が示される、そのために弟子たちは召し出されている。そのように考えられるのです。
2.まことの人でありながら、故郷にキリストが示されることを疑うナタナエル
51節の言葉を直接聞いたのはナタナエルです。彼は「まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない(47節)」と言われています。その理由として「いちじくの木の下にいるのを見た」からだと言います。ユダヤ人は「いちじくの木の下」で聖書を学ぶ習慣がありました。フィリポもそうだったことが伺えます。彼らはみ言葉を聴きながら、神さまがこの世に救い主を遣わしてくださる約束を待っていたことでしょう。その姿は確かに「まことであり、偽りがない」と言えるものだと考えます。しかしナタナエルは疑います。「ナザレから何か良いのが出るだろうか(46節)」。二人はベトサイダの出身、ナザレと同じガリラヤ地方です。聖書を学び続けてきたナタナエルの疑う姿は弟子を代表しています。「慣れ親しんだ故郷で救い主が示されることなどあるだろうか?」。これにフィリポは応えます。「来て、見なさい(46節)」すでに彼はキリストを確信しています。しかし救い主を示されるのは神さま御自身です。その人自身が「来て、見る」より他ないのです。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た」と言われるイエスさまは、ナタナエルの疑いの心までも受け入れます。
3.十字架の木の下に集い、神の御言葉の昇り降りを見る時、天への道は示される
「疑いながらも来て、見る。そして『神の子』を告白する」歩みへナタナエルは踏み出しました!その彼を通じて語られるのが51節です。「神の天使が昇り降り」、つまり天へと通じる道がイエスさまから伸びている、と言われます。これは「キリストから伸びる天への道を弟子たちは見るであろう」との約束です。弟子たちは十字架へと続くキリストの道を共に歩みます。その道の行く手に「世の罪を取り除く神の小羊」が天への道となる十字架の木が立っています。これこそ真実のいちじくの木!この木の下で、神の御言葉の昇り降りを目の当たりにします。「救い主はナザレのイエス」と神さまが示す十字架の木のもとに、私たちは招かれているのです。
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