2022年2月27日主日礼拝
(礼拝動画・途中まで)
(説教音声のみ)
ヨハネによる福音書第2章13-25節
1.神殿から、礼拝に関係のない商行為を追い出し「宮きよめ」をされるイエスさま
縄から作った鞭を振るい、家畜を追い出し、机をひっくり返し、献金のお金をまき散らす。「宮きよめ」とも言われるイエスさまの姿が記されています。これほどの憤りを見せられたのはなぜか。「わたしの父の家を商売の家としてはならない(16節)」神殿は礼拝の場です。そこでの商行為。本来、礼拝とは関わりのない世俗の事。これらを持ち込んだことに憤りを示されたのではないか。そう推測することは出来るでしょう。
2.「何が人間の心の中にあるのかよく知っておられた」からこその、神殿での憤り
しかし本当にそれだけの理由で行われたことなのでしょうか。問い詰めるユダヤ人たちの言葉(18節)にイエスさまは「神殿を壊してみよ(19節)」と言います。その言葉の通り、その振る舞いは暴力をすら伴うものでした。礼拝の場を一旦打ちこわし、突き崩そうとされます。後で気がかりなことが起きています。過越祭の間そこにとどまり、「多くの人がイエスの名を信じた(23節)」ところがご自身は人々を「信用しなかった(24節)」、そして「何が人間の心の中にあるのかをよく知っておられた(25節)」とも。心の中にあるものをご存じのうえで、「礼拝」を打ち崩そうとされたのです。
3.神の御前に心から救いを求める真実の霊と共にあり、キリストは礼拝を建て直す
過越祭はユダヤ人が全土から集まる最大の祭儀でした。旅路のゆえに捧げものはエルサレムで手に入れなければなりません。牛や羊、鳩を買う時、誰しもが神さまの御前にでる自分自身の在り方を値踏みしたことでしょう。罪にしても恵みへの感謝にしてもそれに見合うものを自分で裁いて礼拝に集います。しかしそこで起きることは真実に礼拝へと携えていくべき心の中の奥にあるもの、人生の苦しみ、痛み、悲惨、恐れを隠すことです。あるいは本当に神さまの御前に出て、痛み、苦しみを癒されるべき人々が遠ざけられるということも起きていたでしょう。この時、弟子たちは「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす(17節)」という詩編69編10節の聖句を思い出します。この詩編は人生がずたずたになってもなお神さまを見上げ、救いを求め続ける人の祈りです。そのような人こそ神さまの御前に心の中のものをすべて携え進み出て、救われ癒されなければならない。そのために主は憤りを示し、うわべの礼拝を打ち砕きます。そして、そこから共に立ち上がる姿をも示されます。「三日で建て直してみせる(19節)」との御言葉の意味を弟子たちが理解したのは、主のご復活の姿を見たときでした。神が再び礼拝するものへと建て直してくださる。それは十字架の御元に全ての痛み、苦しみをたずさえ主と共に打ち壊されたのちに起こされる救いなのです。
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