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2022年3月13日主日礼拝

(礼拝動画)

 

(説教音声)

 

ヨハネによる福音書第3章11-21節

11はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。 12わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。 13天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。 14そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。 19光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 20悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。 21しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

 

説教「すべてを神に導かれる生」牧師 三輪恵愛

1.神さまの愛が語られている聖句の直後に、闇を好む生き方が問われている

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(16)よく知られた聖句です。神さまが人を愛するお方であることが直截に語られています。ところが「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている(19)、光とはイエス・キリストを指します。光が来たのに闇があり、その闇に隠れて人々は悪を行っている。そう語られる時、わたしたちは光であるイエスさまを好んでいるだろうか。闇のなかにとどまってはいないだろうか。そう問われます。

2.闇の中で悪が行われる世であっても、神さまは裁かず、愛し、救われる!

「裁き」と聞く時、そこに罪に対する罰を含めて考えます。元来は「はっきりと分けていく」という意味の言葉です。「闇を好むことがすでに裁きである」と言われる時、光としてキリストが世に来たにも関わらず、闇に隠れて罪を行うのであれば、そこで分けられ、捨て去られるのではないか。そこでどうして神の愛を信じることが出来るのだろうか。16節の御言葉への信頼も揺らぎます。しかしよく聞いてみましょう。「神は、世を愛された」、そして17節では「神は世を裁かない、救われる」と言うのです。闇のなかで悪も、罪も起こされます。そういう世を、しかし神さまは裁きません。それどころか、愛し、救おうとされているのです!

3.神は罪の闇を照らすキリストの十字架の光にわたしたちの生のすべてを導く

イエスさまが世に来られ、地上の闇は光に照らされることとなりました。それは罪の本性を明らかにされることです。そこで光だと思っていたものが実は闇であったと気づきます。しかし救われるために必要な事。神さまが世を愛し、裁かず、救うためなのです。キリストが闇のなかに輝く光であること。それは「人の子があげられる(14)十字架によって示されました。人の罪が極まる十字架。光を憎み、殺そうとする闇。しかしそこに神さまの愛が示されました。わたしたちの目に闇と思えるところに、キリストの光が輝きます。愛する御子を十字架に上げるほどに、神さまは世を愛されている!この光に向かうことが真理だと言われます(21節)。キリストの光に照らされた悪を知り、罪を悲しみます。しかし知れば知るほど世を愛しておられる神さまの憐れみに打たれます。全身をこの光に向け直します。その時、すべてを神さまに導かれ、永遠の命に生き始めていることを知るのです。

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