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(礼拝動画)
(説教音声)
今日は貴重なお話をありがとうございました。
ここ数日、パソコンで調べものをしていたときに、偶然、牧師様の礼拝の動画配信に出会い、珍しい動画だなぁと数回分を視聴しました。ありがとうございました。 わたしはどこにでもいる典型的な日本人ですので、まったく信仰を持っておりません。また、聖書を読んだこともありません。何となく知っているぐらいです。そして、これからもその姿勢で生活していきます。こんな風にコメントするのは最初で最後だと思います。ですので、なにか失礼な発言や間違いを述べてしまうかもしれませんが、お許しください。どうしても、支えていただいたお礼と感謝の代わりに、今日感じたことを伝えさせて頂きたかったのです。
今回と前回のお話の中で、長年にわたる疑問や問いかけへの答えがあり、特別なお話に感じました。 使徒のユダを裏切り者として済ませるのではなく、それ以外の使徒たちに、なぜ、彼の裏切りを止めなかったのか、なぜ、そのままにしてしまったのか、という視点で語られていたところに耳が集中しました。 詳細は省略しますが、私もずっと思っていました。使徒の中で、一番世間と接点のある、シビアな現実に向き合う役割を背負っていた、聡明故に堕ちてしまった彼への周囲の態度が、どうしても理解できず、牧師様のお話を聞いて、そう問いかけるべきだったろうと思いました。 また、肉体を持っている人間の愛、その限界と弱さ、迷い、再生の話にも思えて、人間臭さが語られてほっとしました。しんどさを抱えながら誰かと語らなくてはならないとき、自分に大丈夫だよと言ってあげたい。他の誰かにも、大丈夫、なんとかなるさ、そう伝えたい。軽口や無責任ではなく、深い意味で届いて欲しい。私には無理かな。 今、行ったことのない外国で争いが起きていますが、想像以上に生活や精神を圧迫されて、日々見えないストレスを感じています。ふっとした時に胸に悲しみと怒りが蔓延し苦しくなります。こんな時だからこそ、隣の人と自分自身を大切にしたいのに、上手く行かなくて歯がゆさが残ります。
最後の方で、小さな命、そして、信仰していてもしていなくても平等に愛されなくてはいけないというお話がありました。信仰していない私にとっては当たり前のことですし、これからも今まで通り変わらず、過ごしていくと思います。こんないい加減な私などはどうでもよくて、これは、礼拝の中で牧師様が教会にいる仲間に語り、皆様が理解したことに、勇気と善意そして大きな価値があると思いました。 そして、病む者への自業自得と結論付ける周囲の過ちに対する指摘は、本当にその通りだと納得しました。日頃、私もそのような態度で扱われたり、他者を扱ってしまっているのではないか、立ち止まって考える必要があります。周辺に放置してしまった、大小の出来事がたくさんある気がしました。
慰めてくれる人は、愛してくれる人とも言えるのでしょうか。肉体のある存在のみを指しますか。壁を取り払った相手が静かに寄り添ってくれるのは、勇気や安堵につながり、心の大きな一歩を踏み出させてくれる気がします。傲慢な自分が本当に困難に見舞われた時に気づく、身に染みる存在だと思いました。 逆に自分が誰かを慰める人になることは、あり得るのでしょうか。なんの計算も利益も求めず、一緒にほっこり微笑み、信頼を置いて安堵できる関係ができたらいいなと思いました。
とりとめのないことを書いてすいません~! 私はこれまで傲慢で、取り返しのつかない日々を過ごしてきました。どれぐらいの人たちを深く傷つけて生きてきたかわかりません。人に教えを乞う謙虚さや、弱音を吐いて泣く素直さ、悔い改める勇気さえもなく、気づいたら一番カッコ悪くて本当にみっともない姿になっていました。迷い混沌としていたところ、牧師様との語らいで、考える機会を得ることができました。感謝です。 何よりも、芯のある優しく美しい声の響きが一番羨ましかったです。 ありがとうございました。 最後まで名乗らずに申し訳ありません(笑)。お元気で!!
投稿: 「あなた様」 | 2023年5月 7日 (日) 23時22分
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今日は貴重なお話をありがとうございました。
ここ数日、パソコンで調べものをしていたときに、偶然、牧師様の礼拝の動画配信に出会い、珍しい動画だなぁと数回分を視聴しました。ありがとうございました。
わたしはどこにでもいる典型的な日本人ですので、まったく信仰を持っておりません。また、聖書を読んだこともありません。何となく知っているぐらいです。そして、これからもその姿勢で生活していきます。こんな風にコメントするのは最初で最後だと思います。ですので、なにか失礼な発言や間違いを述べてしまうかもしれませんが、お許しください。どうしても、支えていただいたお礼と感謝の代わりに、今日感じたことを伝えさせて頂きたかったのです。
今回と前回のお話の中で、長年にわたる疑問や問いかけへの答えがあり、特別なお話に感じました。
使徒のユダを裏切り者として済ませるのではなく、それ以外の使徒たちに、なぜ、彼の裏切りを止めなかったのか、なぜ、そのままにしてしまったのか、という視点で語られていたところに耳が集中しました。
詳細は省略しますが、私もずっと思っていました。使徒の中で、一番世間と接点のある、シビアな現実に向き合う役割を背負っていた、聡明故に堕ちてしまった彼への周囲の態度が、どうしても理解できず、牧師様のお話を聞いて、そう問いかけるべきだったろうと思いました。
また、肉体を持っている人間の愛、その限界と弱さ、迷い、再生の話にも思えて、人間臭さが語られてほっとしました。しんどさを抱えながら誰かと語らなくてはならないとき、自分に大丈夫だよと言ってあげたい。他の誰かにも、大丈夫、なんとかなるさ、そう伝えたい。軽口や無責任ではなく、深い意味で届いて欲しい。私には無理かな。
今、行ったことのない外国で争いが起きていますが、想像以上に生活や精神を圧迫されて、日々見えないストレスを感じています。ふっとした時に胸に悲しみと怒りが蔓延し苦しくなります。こんな時だからこそ、隣の人と自分自身を大切にしたいのに、上手く行かなくて歯がゆさが残ります。
最後の方で、小さな命、そして、信仰していてもしていなくても平等に愛されなくてはいけないというお話がありました。信仰していない私にとっては当たり前のことですし、これからも今まで通り変わらず、過ごしていくと思います。こんないい加減な私などはどうでもよくて、これは、礼拝の中で牧師様が教会にいる仲間に語り、皆様が理解したことに、勇気と善意そして大きな価値があると思いました。
そして、病む者への自業自得と結論付ける周囲の過ちに対する指摘は、本当にその通りだと納得しました。日頃、私もそのような態度で扱われたり、他者を扱ってしまっているのではないか、立ち止まって考える必要があります。周辺に放置してしまった、大小の出来事がたくさんある気がしました。
慰めてくれる人は、愛してくれる人とも言えるのでしょうか。肉体のある存在のみを指しますか。壁を取り払った相手が静かに寄り添ってくれるのは、勇気や安堵につながり、心の大きな一歩を踏み出させてくれる気がします。傲慢な自分が本当に困難に見舞われた時に気づく、身に染みる存在だと思いました。
逆に自分が誰かを慰める人になることは、あり得るのでしょうか。なんの計算も利益も求めず、一緒にほっこり微笑み、信頼を置いて安堵できる関係ができたらいいなと思いました。
とりとめのないことを書いてすいません~!
私はこれまで傲慢で、取り返しのつかない日々を過ごしてきました。どれぐらいの人たちを深く傷つけて生きてきたかわかりません。人に教えを乞う謙虚さや、弱音を吐いて泣く素直さ、悔い改める勇気さえもなく、気づいたら一番カッコ悪くて本当にみっともない姿になっていました。迷い混沌としていたところ、牧師様との語らいで、考える機会を得ることができました。感謝です。
何よりも、芯のある優しく美しい声の響きが一番羨ましかったです。
ありがとうございました。
最後まで名乗らずに申し訳ありません(笑)。お元気で!!
投稿: 「あなた様」 | 2023年5月 7日 (日) 23時22分