初めての方へ
自分探しの旅
☆ 聖書は慰め、力、希望のことばです ☆
☆ 岐阜教会は、あなたのお出でをこころからお待ちしています ☆
キリスト教会は何よりも先ず、日曜日を主日と呼んで、神に礼拝を捧げます。
礼拝では、共に讃美歌を歌って神をほめたたえ、聖書に書かれている神さまの言葉を聞きます。聖書は、数千年の過去から現代に伝わった書物ですが、そこから私たちが今の時を生きるための力や慰めや希望を聞きとるのです。
「人生は、自分探しの旅」とはよく言われることです。どこか私たちがまだ知らなかった村を訪ねたり、外国まで観光旅行に出かけたりする時には、必ず地図を持って行きますね。でも、人生という旅を行くのに、地図がないままで出かけている人が、案外多くないでしょうか。
古い時代から、中身が少しも変わったことのない聖書ですが、不思議なことに、礼拝で聖書の言葉を聞く時に、今の自分にぴったりの言葉に出会う経験を味わいます。その意味で、聖書は、いつも新しい本として、あなたにも開かれているのです。聖書は、人生という旅のための、こころの地図といって良いでしょう。
どうか、日曜日の礼拝においで下さい。そして、あなたご自身を、見つけて下さい。自分のことは自分が一番よく分かっている、と思っていたあなたが、新しいあなたご自身と出会うという、何ものにも代えられない喜びをお味わいになるはずです。教会は、あなたのお出でをこころからお待ちしています。
キリスト教入門
キリスト教とは、キリストのことである、と言われます。キリスト教は何かの宗教的な雰囲気でも、理念でもありません。もっぱらイエス・キリストというお方のご人格と、この方が為さったことに基づく宗教です。このキリストというお方を通して、神と出会い、神の民の一員として教会という共同体の行う、神礼拝に参加するのです。
キリストは、2千年の昔のユダヤ(イスラエル)に30年ほどの生涯を送った人物です。そういう点では、当時のユダヤの人々と何ら変わるところのない一人の人でありました。何にもまして、苦しみということでは、決して逃避的ではなく、ことに隣りに生きる人の苦しみ悲しみに敏感に反応しました。だから、この人の近くにいる人は誰でも、言葉に表せないほど深く豊かな慰めを味わいました。人の苦しみに関わりそれを負うことに、その極みまで誠実であると、それは「死」(十字架)にそのまま直結します。このように、他人の苦しみのどん底まで共に苦しみ、死に至ることの出来るのは、人でありながら神でなければ不可能です。人でなければ苦しむことはありません。しかし同時に神でなければ他人の苦しみのどん底を共にすることは出来ないからです。普通人は苦しむ時は孤独に陥り、死ぬ時は誰でもたった一人です。キリストは私たちの仲間としての人でありつつ、同時に私たちが礼拝する神その方でもあるのです。このことを信じるのが、キリスト教です。
聖書は、そのことを理念や思想である前に、具体的に人々が生きる生活や歴史の中で、イエス・キリストが人々と、どの様な時も共に生き死んで下さったお方であることを、物語ります。聖書を読み、キリストという神を礼拝すると、このことが、今の私たちにも、そのまま当てはまることに気付かされます。私たちが生きるどのような時も、どのような場所にも共にいて下さるキリストと、一緒に生きて行くことが、いかに豊かな人生であるかを、是非知って頂きたいと思います。あなたが自分でも自分を見限りたくなるようなどん底にいても、共にいて下さるキリストを知ると、あなたはもう自分に恰好を付ける必要はなくなります。自分の良い所取りをし、惨めな自分に素知らぬ顔をする無理をしなくて済むからです。あるがままの自分を受け容れることほどの開放感は他にありません。自分をあるがままに受け容れることが出来ると、自分とタイプの違う他人ばかりでなく、どうにも折り合いの付かなかった他人にも、苛立たずに寛容になれるはずです。色々な点で、ストレスが罹る現代の生活を乗り切る術が、生きたキリスト教生活にはあるのです。