1月のことば

 昼間の闇に抗して
                                        牧師 多田 滉
                                                               
  新しい年をいかがお迎えでしょうか。
 表面的には景気が好転し、明るい年が開けるように思えなくもありません。しかし、表向きの希望が、しっかりした土台に根ざしたものかと言えば、どうもそうでは無いようです。表面の明るさの裏側に、深刻な闇が深まっています。なにか全ての対策が、「モグラ叩き」のように、その場限りの問題処理に追われていて、根本から築き上げる必要があるものは、全てが後回しにされいるようです。人心は、どこかでそういうあやふやさを感じ取り、恐ろしい不安に苛(さいな)まれていて、なにかのきっかけで爆発しかねません。思わぬ処で吹き出せば、暴走は誰も止められないことになる。殊にネット社会の動静にそういう危惧が感じられます。

 新年の改まった思いのこの時に、改めて落ち着き、心をひそめて慎重に一歩を歩み出したいものです。あっけらかんとさえしている昼間の明るさの、その裏側にひそむ巨大な闇に抗すること、それは元々聖書が指し示す信仰者の業でしょう。闇が深まれば、それだけ光は輝きを増します。どんな闇も、この小さな光を覆い消し果てることが無かったことは、今回の降誕祭でも確認したことでした。又この事実は、聖書という秘義に満ち魅力溢れる書物が置かれた人類の歴史が雄弁に物語っており、それを誰も否定出来ません。

 アドベントに歌った、現代の殉教神学者D.ボンフェッファーが遺した讃美歌が、唇に上ります。「闇は深まり/夜明けは近し。明けの明星/輝くをみよ。夜ごとに嘆き、悲しむ者に、よろこびを告ぐる/朝はちかし。‥‥闇の中にも/主は歩み入り、かけがえのない/われらの世界/死の支配より/解き放ちたもう。来たらしめたまえ/主よ、御国を。」(讃美歌21、243番)。

 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」
                             (創世記15篇5節)

 目覚めよ、わたしの誉れよ/目覚めよ、竪琴よ、琴よ。わたしは曙を呼び覚まそう。
                             (詩編57篇9節)

 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。‥‥そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。
                   (マタイによる福音書5章14、16節)

 ‥‥わたしの愛する人たち、‥‥恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。‥‥ そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、‥‥キリストの日に誇ることができるでしょう。                            (フィリピの信徒への手紙2章12、15,16節)

12月のことば

 神が人となって、人が人になる
                                牧師 多田滉

 今年もクリスマスシーズンに入りました。現今の私たちにとって、神の御子の降誕の出来
事は今更のように強烈なインパクトをもって迫ってくるように思えてなりません。あの劇的な「イエス・キリストの誕生の次第」が、目下の状況にまことにホットで新鮮な出来事と読めて201312hp_2
くるのです。


 今、私たちの国は「秘密」の構築で揺れています。各方面の人々からの深刻な危惧を尻目に、ごり押ししてまでことが進められようとしているからです。「秘密」は根本的に人々の間の信頼を揺るがせ、疑心暗鬼を生むだけでなく、やがて結局社会を崩壊させます。


 神は、その独り子を世に送るに当たって、初めから極度の危険の中に事を起こし給いました。つまり、聖霊によるマリアの懐妊でした。夫ヨセフは「ことを表ざた」にせずに「ひそかに縁を切ろうと決心した」、つまり出来事を「秘密」にすることで解決しようとした訳です。それでヨセフは「正しさ」を貫こうとした、と聖書は言います。思いあぐね、悩み抜いた果てで、それが彼のマリアへのいたわりでもあったのでしょう。しかし、それでは婚姻は成立せず、社会構成の基本である家庭が崩壊し、社会そのものが壊滅します。人間の「不正」によるだけでなく「正しさ」によっても、社会は究極的に成り立ちません。


 これに対して神の人間世界への恵みの介入そのものが、初めから危険そのものであったことが注目されます。しかし、神の引き起こす危機が人を救います。人間の正しさを挫(く201312hp_3
じ)き、根底からの謙遜を根付かせる為に、どうしてもそれが必要です。神はヨセフに、「秘密」構築ではなく「秘密」を「信頼」に転換し克服することによって、真の解決に到る道を示し命じます。それには予想される様々な具体的な困難に立ち向かってゆく謙遜で強烈な意志を必要とします。それは、「秘密」で保持を計ろうとする安全よりも、遙かに労多く長い道のりの、しかし同時に絶大な実りが約束される道でしょう。ヨセフが神の指示に従い、御子が生まれ、人として歩まれ、その後に続いてゆく道が見事にそれを証明します。神が人となって、私たちの間に住んで下さったので、人間ヨセフは真に責任的に奉仕する人となったのでした。私たちも同じです。

 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
                             (創世記2章24節)

 あなたの父母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る。
                             (申命記5章16節)

 主御自身が建ててくださるのでなければ/家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身Dscn0309
が守ってくださるのでなければ/町を守る人が目覚めているのもむなしい。
                             (詩編127篇1節)

 ‥‥「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。‥‥この子は自分の民を罪から救うからである。」ヨセフは‥‥主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれ‥‥、その子をイエスと名付けた。
                              (マタイによる福音書1章20、21,24,25節)

11月のことば

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 自然と人格


                                                                   牧師 多田滉

 出雲と米子の二つの教会の合同修養会と、米子での伝道礼拝に仕えました。奉仕後、台風一過のすばらしい快晴のもとで、米子の牧師先生の運転で大山の麓の道をドライブしていただく贅沢を味わわせていただきました。伯耆の大山は、若者の頃志賀直哉「暗夜行路」の読書経験で遙かな記憶の残像を忍ぶ懐かしい山でもあります。
 主人公が、家庭や愛情生活の痛々しい体験で引き裂かれた心を、あの山の優しい山懐に身を横たえ、大自然に救いを託しきる思いに浸りながら、小説が終わっていったように幼い記憶が残っています。主人公の時任謙作が身を横たえたのは、どの辺りだったろう。それは間違いなく、柔らかで優しい山肌の西面のどこかに違いない。作者は峻厳な北壁や険しい南の岩肌を知らなかったのだろうか。いやむしろ、そういう厳しい環境を背にしているあの山をこそ、小説終焉にふさわしい地として選んだのかもしれない、などと勝手な思いをめぐらしたことです。
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 それは兎も角、自然は時に破壊的な厳しさで歯を剥き出し、多くの甚大な災害をもたらしはするものの、過ぎてみると大自然は元の姿に戻り、まるで何事も無かったかのように静まりかえります。そして時が過ぎれば、災害の忘れがたい悲しみの体験の風化や忘却が戒められます。過酷な悲しみをしっかり胸に刻み、それを未来の歴史形成の糧とするのは、自然に身を委ねる「時任謙作」的救済観では足りないのではないか。結局悲しみは薄れるに任せ、結局無かったこととして扱われてしまうことになりかねません。殊に隣国との関係での近年の行き違いの原因がそこにあるように思われてなりません。
 神は人を選び、呼び出し給います。それは自然世界を組成としながら、人間は自然とは違う強力な人格の立ち上がり、人格の目覚めと自覚を促すものです。それこそが、過去の不幸を悔い改めを中心にした心の翻りによって、積極的な歴史形成に転換する力を湧き出させるものでしょう。複雑で多様な美しい姿の佇まいを見せてくれる伯耆大山を眺めやりながら、思ったことでした。

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 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。‥‥。
                        (創世記12章1~4節)

 目覚めよ、わたしの誉れよ/目覚めよ、竪琴よ、琴よ。わたしは曙を呼び覚まそう。
                             (詩編57編29節)

 人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。
                       (マタイによる福音書7章12節)

 兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。
                                       (フィリピの信徒への手紙4章8節)

10月のことば

 信頼の回復



                                牧師 多田滉

 バブル景気に酔いしれる頃の私たちの国を、世界はエコノミックアニマルと揶揄しましたが、今やその世界がグローバリズムに席捲されて経済動向一色に塗りつぶされています。201310hp_009_3
近代化が進行する現代世界の「現代人のユダヤ人化」(大木英夫)をもじって言えば、今や「現代世界の日本人化(エコノミックアニマル)」現象と言えなくはないとさえ思うのですが、どうでしょうか。経済が全ての生き方は、要するに金銭の多さで全てが決まります。しかし持つほどに人は人と人を結ぶ絆を細め、孤独や孤立感が漠然としかし決定的に人の心を覆うことになります。富(マモン)の決定的な特質は、それに寄りかかる人を裏切る処にあり、歴史はその実例には事欠きません。

 今こそ、人は「富」にではなく、「神」に立ち帰らねばなりません。そこで人格的信頼を取り戻さねばなりません。あの大災害で、全てを失う経験を味わった時、改めて私たちは「絆」の大切なことに気付きました。それを「経済最優先」追求と引き替えに失ってきたことに思い到ったのではないでしょうか。「神信頼」こそが人への信頼の基いです。嵐の湖上で、大波と風に翻弄されながらも小舟で眠る主イエスは、天地の造り主への絶対的信頼に基づいて、大波のために操船の自信を失った弟子たちを信頼されたのです。それがあの方の安眠の秘密でした。その「信頼」こそが、後々の困難を窮める宣教にも、彼らを奮い立たせたと考えられます。何も無いような処、弱さの極みでこそ信頼はその真価を発揮します。無から有を呼び出す神がそこに働かれるからでしょう。



 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
                        (マタイによる福音書6章24節)

 イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。
                      マタイによる福音書8章23~27節))

 「わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした」と書いてあるとおりである。彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。
                       (ローマの信徒への手紙4章17節)

9月のことば

20139hp_008 コヘレト、そして聖書に親しむ秋

 牧師 多田滉

 経済やお金の巡りがよくなり、暮らし向きが好転すれば、原理原則などどうでも良い、という世相が拡がっています。これは私たちの歴史において、宗教が常に「現世利益」を願うことに終始して来たこととの表裏現象でしょう。ご利益を追うことは、人の手の業が巧みになれば、それで果たされますから、次第に人々の心から薄れて行き、ついには宗教そのものが消えてゆくのはごく自然の成り行きです。暮らし向きが良くなり、それで安定した生活が得られるかといえば、決してそうでは無く、見えないところで鬱屈した思いが蓄積されて行っています。間欠泉が吹き出すように、人々の心の土肝を抜くような凶悪な事件が爆発的に繰り返されます。

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 聖書は、神が人の心の奥底に、永遠を思う心を植え付けて、人をお造りになった、と語ります。この点は人が神の手によって造られたということ自体を認めようとしなければ、全く絵空事に思えるでしょうが、しかしそれを受け入れ信じて生きて見るなら、そこに揺るぎない真実が、消すことの出来ないほどの確かさで、人の心を捉え支える事実を味わいます。

 コヘレトの言葉が、聖書に加えられていることの意味を、最近考えるようになって来ています。空しさ、虚しさを前面に語り出すこの書が、厭世の気分に揺れて頽廃的だ、と受け止めればそれはひどい誤解ではないか。コヘレトはむしろ一筋縄の断定を拒むほどの老獪(ろうかい)な人物です。むしろ、永遠という人の手の及ばない場所を知って、若者に感受性が色褪せない内に自分が造られた存在であるのを知ることを奨励します。この世に生きる一切を「空しい」と捉え、つまりあらゆる意味での偶像視から解放されて、尚現実を肯定的に生きる術を知る根拠をそこから得ているのがコヘレトだ、とは言えないか。

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 こういうスタンスは、使徒パウロが過ぎ去る世を真剣に受け止めて、この世界の全てを絶対視せず相対的に扱うことを勧めていることにも通じます。コヘレトは謎めいた書物です。聖書そのものが謎めいていて、どのような断定的な読み方も拒絶するのと同じです。聖書は読めば読むほど、読む者に分かり確信を与える一方、更に謎を深めてゆくものです。私たちの人生そのものが謎めいているからでしょう。謎めいた人生をそっくり全体として受け止めることを教えてくれる、だから聖書を読む喜び、興味と慰めは尽きません。コヘレトの言葉は、聖書そのものとして、謎めいた人生を尚生きようとする私たちに呼び掛けて来ます。

 猛暑が降雨と共に、衰えて行こうとしています。深まる秋、「分かって、分からぬ」(渡辺善太)聖書に、又そのコヘレトに耳を傾けることにしたい、と思っています。


 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。‥‥神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。

                        (コヘレトの言葉3章1、11節)

 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と/言う年齢にならないうちに。
                          (コヘレトの言葉12章1節)

 兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。
                 (コリントの信徒への手紙一、7章29~31節)

8月のことば

里山の小さな命たち
牧師 多田 滉

 
日曜学校の夏期学校で、各務野自然遺産の森に、子供たちと一緒に行ってきました。ここは丘陵地の森を切り開いて、芝生を植えた広場を中心に、深い沼池を抱き、茅葺きの民家を移築した、各務原市民の憩いの広場です。里山の雰囲気を再現したような豊かな環境に、半日子供たちの元気な声が響いて、楽しいひとときでした。 20138hp_003_5                                 

そこで、子供が木の根元から見つけてきたニイニイゼミの抜け殻を手のひらに、若い女性の先生から、近頃はめっきりこの蝉の姿が見られなくなったという話を聞いて、ほんとうにそうだ、と思いました。蝉やトンボなどの昆虫や、小魚たちの随分多くの種類が、今や絶滅危惧のレッドデータブックに名を連ねていて、唖然とします。そういえば、今年は油蝉の鳴き声を未だあまり聞きません。これからでしょうか?

  生活の中に、子供たちと共にいたこういう小動物が減ってきています。子供たちも、夏休みを家屋の中でゲーム機で過ごす傾向では、彼らもあのような生き物を仲間にしなくて済むようになってしまったのでしょうか。そういう昆虫や小魚などの小動物の減少と、私たちの生活環境から、里山が消えたこととは、深い繋がりがあるのかも知れないと思っています。

 20138hp_002 神が世界を造られたとき、人を造ってそれを彼らの手に委ね給い、その後で創造の御業を完成されました。そして、人が自然世界の生き物たちをどう扱うかを、神が見て居られる、という記述が聖書に読み取れます。手付かずの自然世界が美しいのではなく、人の手が加わってこそ、本当の自然らしさを発揮するようにされているのではないでしょうか。正に里山はその象徴です。絶えず人の手が入り、自然そのものではなく、と言って市街地でもない里山は、小さな動植物が数豊かに平和に賑わう場所であり、又ここはクマやイノシシ、猿たち野獣が村里に立ち入らずに済む、彼らとのそういう意味での平和も保つ緩衝地帯という意味も出て来ます。多様な命の営みを育むという里山の重要性に、改めて気付いた人々によって、各地で始まっている里山回復の動きに、心から声援を送りたいと思います。

 聖書は、人間による自然破壊への警告と共に、神による創造の業の完成が、単なる完了ではなく、人間の自然管理による終末的完成をも目指していることに、改めて気づかされている昨今です。

  神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」 そのようになった。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。                             (創世記1章27~31、7節)
                                                                               
 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。‥‥。                                                      (創世記2章19~20節)
                                                                               
 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。
                                                (ローマの信徒への手紙8章19~22節)

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6月のことば

聖書と民主主義                                            牧師 多田 滉

   
戦後民主主義の真価が問われる時が、来ようとしています。キリスト者は、民主主義の根源(ルーツ)に聖書があることを、改めて自覚すべき時でもあります。信教の自由の底を流れる人権思想に、人を創造し罪から救う神の恵みのご意志への応答があるからです。私たちの国の民主主義の脆弱(ぜいじゃく)を嘆く人も、この点に思いを到らせなければ、嘆きは深まるばかりで、やがてそれが落胆に変わることを、どうやって防げるでしょうか。
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 民主主義は、一度手にすればそれで十分とは、決して言えません。聖書の信仰が与えられて後、常に聖書に親しみ、生涯の日々を悔い改めに過ごすべき(M.ルター)であることと、民主主義も常に自覚的に吟味と成長を計り続けなければ本物でないという事からも、聖書と民主主義の密接な関係がうかがえます。

 「政府と憲法との区別が現実に守られていないようないかなる国家においても、政府の意志に対してそれを抑止するものがない故に、現実には憲法が存在しないこととなり、したがってそのような国家は事実上専制国家である」という文章を、読みました。これは聖書的信仰を土台とする外国の民主主義形成に関わる言葉です(大木英夫著「人格と人権」下に引用されたC.H.マッキルウェイン)。しかし、同時にこういう憂うべき事態が、正に目下私たちの焦眉(しょうび)の課題となって来ています。法治国家を誰もが自認する私たちの国ですが、私たち自身、国家の構造を根底から規定する憲法と、立法府、行政府で作り、実施される法律との区別の出来ない国民であってはならないでしょう。

 聖書の信仰に生きる私たちのこうした憂いや嘆きを、「ごまめの歯ぎしり」に終わらせない為に、私たちに今何が必要でしょうか。

「あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、
それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。
あなたはかたくなな民である。
あなたは荒れ野で、あなたの神、
主を怒らせたことを思い起こし、忘れてはならない。
あなたたちは、
エジプトの国を出た日からここに来るまで主に背き続けてきた。」
(申命記9章6、7節)
 「わたしはあなたを目覚めさせ
行くべき道を教えよう。
あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。
分別のない馬やらばのようにふるまうな。
それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。
そのようなものをあなたに近づけるな。
神に逆らう者は悩みが多く
主に信頼する者は慈しみに囲まれる。
神に従う人よ、主によって喜び躍れ。
すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。」
(詩編32篇8~11節)
 「柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。」
(マタイによる福音書5章5節)
 「あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、
『父』と呼びかけているのですから、
この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。
知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、
金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、
きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」
(ペトロの手紙一、1章17~19節)

5月のことば

再び復活信仰によせて――その真実と確かさ
牧師 多田 滉
                                                   
(4月29日日本キリスト教会第49回中部地区「信徒のつどい」、
ペトロの手紙一、1章3~7節に基づく開会礼拝説教から再録)
 主イエスが復活された時、その繰り返された予告にもかかわらず、弟子の誰一人信じて受け入れる者はなかった事実を、先ず思い起こしましょう。彼らの心には恐怖や不信や疑惑の闇が渦巻きました。その為に、復活されたイエスは40日も繰り返し弟子たちに顕れ給い、「信じない者」から「信じる者」に彼らを変えられていった、と聖書は告げます。ここに奇跡中の奇跡である「復活」の真実が現れています。

 そうなってみると、弟子たちの心の闇に光が差し込み、恐怖は喜びに変えられて行き、その圧倒的な喜びの勢いは、言葉に尽くせない程になって行きます。人の喜びには他者を傷付け痛ませる罪の喜びもあるのです。その罪人が悔い改めの喜びを知れば、天上で天使たちの間に喜びが拡がる、と言われます。更に復活信仰の喜びは、父なる神の喜びに加えられる喜びです。従って、この喜びは実に確かな構造をもつ安定した、永続する喜びです。
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 地上の喜びは、常に移ろい行く儚(はかな)さを免れませんが、復活の喜びは永遠の世界に連なるから、確かなのです。地上の見えるものは失われる定めですが、復活信仰によって天上に連なる人には、失った大切なものは天上に宝を積むように、蓄えられるのを信じることが出来ます。そういう確かさを生きるならば、地上生活の苦難さえもこの喜びを奪うことが出来ません。却って、苦しみや悲しみは、主イエスの十字架を仰ぎ、自分の小さな十字架を担う機会とされて、その中でむしろ「輝きに満ちた喜び」が漲(みなぎ)り照らす機会となるでしょう。

 復活信仰は、永遠の世界に目を開くとは言え、決して虚しく「天を見上げて立っている」ような、現実離れや夢見心地を生じさせません。全く逆に、私たちを目覚めさせて、具体的な現実世界の困難に、「生き生きした希望」をもって立ち向かう活力を養うのです。
 「‥‥神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」(ペトロの手紙一、1章3~9節)
 「‥‥、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。』」(使徒言行録1章9~11節)

4月のことば

復活信仰によせて
牧師 多田 滉

                                            

 今年、当地は復活祭を桜の満開の中で迎えることになりました。教会では、復活祭の主日礼拝を献げた午後、改めて教会墓地に集まって、先に天に召された教会の信仰先達がた夫々の在りし日を忍びながら、復活の主を拝します。墓地の周囲は、満開の桜が咲き競っていることでしょう。Top201304_1s320

 古来、私たちの国では、満開の桜の根元には多くの死者達が埋まっている、という言い伝えがなされて来た、と言われます。余りにも見事に咲きそろう桜の異様なほどの、妖艶な美しさに、そういう想念が人の心を訪れるのでもありましょう。そういう私たちの心に萌(きざ)す思いは、考えて見れば人の思いが及ぶ可能性の範囲内のことでしょう。人は、そういう言い伝えを了解することも、拒否することも出来るでしょう。

 それに対して、聖書が伝える主イエスの復活の出来事は、どのような意味でも、人間の可能性を遙かに超えた出来事です。それ故主イエスが死人の中から復活された出来事は、全てを超え、呑み込んでしまうほどの出来事です。最初に主イエスの復活に立ち会った人々の、戸惑いや恐怖を聖書はありのまま伝えています。彼らは、それによって自分たちが全く新たにされた喜びを知ってゆきます。そういう自分たちの思いを遙かに超えて、全く新しい出来事に圧倒されているのです。正にそれは、人間の歴史に臨んだ神の介入でした。そして、それは今なお私たちの中に続いて引き起こされています。

 人間の思いが全てを覆い、人の手があらゆる出来事を支配するかに見えるこの現代にも、神が生きて働き、人の思いを超えた御旨で導いておられます。そのことを主イエスの復活の知らせは、語り続けます。其処に人類の最後の希望が厳然としてあるのです。
 「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。
『あの方は死者の中から復活された。
そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。
そこでお目にかかれる。』
確かに、あなたがたに伝えました。」
(マタイによる福音書28章7節)
 「しかし、このことは、
『目が見もせず、耳が聞きもせず、
人の心に思い浮かびもしなかったことを、
神は御自分を愛する者たちに準備された』
と書いてあるとおりです。」
(コリントの信徒への手紙一、2章9節)
 「婦人たちは墓を出て逃げ去った。
震え上がり、正気を失っていた。
そして、だれにも何も言わなかった。
恐ろしかったからである。」
(マルコによる福音書16章8節)
 「それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、
そして一緒にいた他の婦人たちであった。
婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、
使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、
婦人たちを信じなかった。」
(ルカによる福音書24章10、11節)
 「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、
眠りについた人たちの初穂となられました。」
(コリントの信徒への手紙一、15章20節)

3月のことば

御言葉が根付くということ
牧師 多田 滉
                     
 漸く春の訪れが近いことを感じさせる陽気となりました。今年は冬が寒かった割には春が足早に来て、桜の開花も遅くならずに済むようです。教会の歩みは、主イエスの御受難を忍ぶ季節です。復活祭の感謝と喜びの前に、四十日もの長い期間主イエスの御苦しみを忍ぶことには、特別な意味があるように思います。Top201303_1s320_2

 人は、元々苦しみを避けて安きに付きやすい傾向を持っています。そして時代も場所も遠く隔たった昔、ユダヤのナザレから出たイエスという人が、他でもないこの私の為に、代わって罪の裁きを受けて死んで下さった神、と受け止めることの難しさです。

 更に加えて、私たちの国の、プロテスタント宣教に限っても、一世紀を既に越える歴史を経ても、クリスチャンが全人口の0.1%にも届かない現状があります。超越世界に疎いもともとの性格と、そういう天的な救いを尊ぶ宗教を徹底的に弾圧して根絶やしにした権力が長い間続いて、一般民衆の心からも遠いものという観念がいつしか浸み込んでいる風土です。

 しかし、神の子が人となり、十字架で苦しみ抜き、救いを果たして下さったことが、無駄になる領域は、世界の何処にもあり得ません。十字架のことばの力を信じて、地の果てまで福音を宣べ伝えるようにという主のご命令は、同時に時代の果てまで続けられるのです。一人でも多くに福音がもたらされるように、しかもその一人ひとりの魂の底まで届くことを信じ祈って行きたいと思います。
 「主はアブラムに言われた。
『あなたは生まれ故郷/父の家を離れて
わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める
祝福の源となるように。
あなたを祝福する人をわたしは祝福し
あなたを呪う者をわたしは呪う。
地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る。』」
(創世記12章1~3節)
 「論じ合おうではないか、と主は言われる。
たとえ、お前たちの罪が緋のようでも
雪のように白くなることができる。
たとえ、紅のようであっても
羊の毛のようになることができる。」
(イザヤ書1章18節)
 「良い土地に蒔かれたものとは、
御言葉を聞いて悟る人であり、
あるものは百倍、あるものは六十倍、
あるものは三十倍の実を結ぶのである。」
(マタイによる福音書13章239節)
 「というのは、神の言葉は生きており、
力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、
精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、
心の思いや考えを見分けることができるからです。」
(ヘブライ人への手紙4章12節)

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