12月29日説教
説教をお聞きください。
聖 書 ガラテヤの信徒への手紙2章15~21節
説 教 「キリストが私の内に生きて」
「‥‥わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。‥‥」(19b、20a節)
年が変わります。誰もが新しさを喜び、心機一転を願うこの時機です。その新しさを根底から支えるものを、聖書の信仰から確認したいと思います。「あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は/命あるものの中にはいません。」(詩編143篇2節)と歌われる通り、過ぎて行く年を送るこの時に、過去の過ちや落ち度が裁かれることを思わねばなりません。誰もがこの裁きを過ぎ越すことは出来ません。罪と総称される、いのちを阻(はば)み窒息させるものが立ちはだかるからです。従って、私たちの命は回復を必要としているのです。それが誰しもこういう時期に、新しさを願い求める心の深層に横たわっている問題です。普通多くの人が、ただ気分を一新することで、済まそうとするし、実際に済んだことにして乗り切って行くのですが、そうしなければ遣って行けないほどに、実は深刻な問題なのです。魂の根底から神との正しい関係に入れられて、罪が赦され、はじめて私たちは古いままで滅びてゆくことを免れるからです。
その為に、キリストの十字架の恵みが私たちに迫って来ます。そこで律法は救いに役立たないことが明らかになりました。「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(ロマの信徒への手紙3章20節)。私たちには、行いや業績によって立とうとする愚かさが知らされます。勿論行い自体が虚(むな)しいのではなく、行いに頼ることが虚しいのです。虚しさに支配される心は、駆(か)り立てられ走り出して一層虚しさを深めさせます。そういう満たされない心が他者への不寛容と独善を生むのです。それが異邦人を容れる余地を失ったユダヤ主義に現れた典型でした。「しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。『あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。』」(ガラテヤの信徒への手紙2章14節)。律法の行いではなく、神の一方的な恵みに対する感謝が、溢れる中で、豊かな行いが流れ出るようにして、他者への開かれた心を養います。ペトロの態度の中に残っていたユダヤ的な生活の古さが、福音が異邦人を通して世界に拡がるのを阻(はば)んでしまうことを、パウロは鋭く見抜いたのです。
しかし、パウロもペトロも十字架に死ぬこと、「キリストがわたしの内にいきておられる」と信じるのが、本当に人が新しくされる大切な点であることについては、全く一致していました。パウロが求めたのは、そういう信仰の徹底でした。「愛の実践を伴う信仰(尊いのは、愛によって働く信仰・口語訳)」(ガラテヤの信徒への手紙5章6節)といわれるように、信仰が実際生活の「実践」や「働き」となって現れ出ることです。御言葉を聴くことによって、そのままで「地の塩」、「世の光」とされている私たちの福音が、「 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイによる福音書5章13~16節)と主イエスが仰(おっしゃ)るように、現れ出ることが求められる訳です。そういう信仰が、人を一切の依存体質から解放し、真の自立した「わたし」を立ち上がらせます。パウロが直接十字架の信仰に語り及んで、文章の主語が「わたしたち」から「わたし」に変わったことを注目したいと思います。「わたしたち」の連帯の中にさえ埋没し依存する傾向があるのを自覚して、「わたし」という責任主体が立ち上がるのが、十字架のキリストにあって死に、「キリストがわたしの内に生きておられる」ことによる体験です。そのことが翻(ひるがえ)って本当に堅固な「わたしたち」を生み出し育てます。逆に今の世相は多くの人が依存傾向に気付かずに、「長いものに巻かれる」古い生き方を拭い切れないどころか、益々雪崩(なだれ)を打つような勢いで、落ち込んでゆく趨勢(すうせい)が否めません。体制順応という一体性の持つ偽りの中に安住して、個人を埋没させる中毒症状が蔓延しているからです。十字架に架けられて「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によ」って真に自立する個人の中にこそ、必要ならば敢えて傷付くことを恐れずに、互いの価値観の違いを受け容れ合いながら、共同して生きるいのちが育まれます。人を本当に自由にする真理(ヨハネによる福音書8章32節)としての十字架のキリストを信じ抜いて、「折が良くても悪くても」(テモテへの手紙二、4章2節)宣べ伝え続けましょう