2017年1月月報より
小さな群よ、恐れるな 牧師 多田 滉
戦後、私たちの国の教会に指導的な奉仕をした牧師、神学者の一人に、渡辺善太という人がいます。この人の残した神学書や説教が著作集の形に纏(まとめ)められて、刊行中です。その説教集の中に、イザヤ書六章一~一三節を講解して、次のようなくだりがあります。イザヤを預言者としてお召しになった神から「これがお前の使命だよと言われて、はっきりとそれを握らせられると、その舌の根が乾かぬうちに、お前の預言は効果をみせぬぞという。‥‥こんな言葉を聞かされたイザヤはどうした?‥‥効果のないことを覚悟の上で彼は預言した。これがネ、キリスト教が今日はやらない原因だ。‥‥これがわからなけりゃ、キリスト教の福音というものはわかるもんじゃない。この矛盾にもかかわらずイザヤは立った。」
確かに、聖書はアブラハムを召した神が、彼を祝福の元とされて、全世界に子孫が増え拡がる約束を与えています。そういうならば、宣教が右肩上がりに効果を発揮する、という約束です。しかし、同時に聖書には、不思議なことにそれと全く逆の方向性も、語られます。イザヤの召命記事もその一つでした。さらに上げれば、ギデオンが兵を極限まで数を減らすように命じられたり(士師記七章四節以下)、預言者エリヤの、「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、‥‥わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」(列王上一九・一〇)という嘆きなど。更には主イエスにおいても、「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。」(ヨハネ一六・三二)とか、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、『あなたがたも離れて行きたいか』と言われた。」(ヨハネ六・六六、七)などを思い起こすなら、こういう現象は決して珍しいことではなく、むしろ福音が世に語られる時の、至極当然の事態だと受け止めなければならない、と言えます。
私たちの国のプロテスタントの宣教は、二つのブームによって成り立っています。明治初期と第二次世界大戦後に、キリスト教が日本全体を覆い、私たちの国がキリスト教国になるのか、と思わせるほど、各地の教会に人々が押し寄せました。しかし、ブームはバブルにも似て何時かは萎む時が来ます。今日、この国のキリスト教は、既に絶滅危惧を感じさせる、という悲観的な観察が囁かれる迄になりました。それが教会の宣教の怠慢や熱意の減衰から来るなら論外ですが、むしろ渡辺善太氏の指摘や、それを裏付ける聖書記事などを見るなら、むしろ私たちの教会が、こういう状況下で聖書的な信仰を真に体得し、教会がキリストの教会として立つ為のむしろ絶好の機会と考えるべき時だ、と言ってよいと思えてきます。数の多さにものを言わせるポピュリズムや、安易な成功物語が人々を総嘗めにしかねない傾向が、世界を覆う昨今です。勤勉で忍耐強く、数々の難局にも、決して諦めない信仰姿勢を、聖書は随所で励ましています。「わたしひとりだけが残り」、と嘆いたエリヤに「わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」(列王上一九・一八)と神は語り給いました。「わたしをひとりきりに」と言われる主は、「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。」という確信を添えて語られます。私たちも今、教勢低下が嘆かれ、日曜学校に僅かの子供達しか通わなくなり、若者の教会離れが著しい、といった現状を目をつぶらずに直視しながら、尚希望を捨てないのが、今日のキリストの教会の姿です。そこには常に主による励ましが響いて居るのを忘れないからです。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ一二・三二)。