12月28日説教

聖 書  ガラテヤの信徒への手紙5章13~15 節
説 教 「律法を全うする愛」

 「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。」(14節)

 信仰は神に召し出されて「自由」にされることだと、パウロは言います。それはちょうどアブラハムが「生まれ故郷、父の家を離れて」(創世記12章1節)出たことにも通じます。他方、放蕩息子も父の家を出たことでは同じようでしたが、それは「自由」ではなくやがて全てを失って、「もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と告白して、息子としての「自由」は望むべくもないから、「雇い人」として迎えて貰おうと覚悟するに至る道でした(ルカによる福音書15章19節)。雇い人とは取りも直さず奴隷の身分そのものです。彼が家を出たのは、アブラハムのように神の指示によってではなく、自分の意志だったからです。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(13節)とパウロは言います。正に放蕩息子は、父の家を出る自由を行使しながら、その自由を、肉に罪を犯させる機会としてしまったことが、現れている訳です。ここに自由によって命の道を生きるには、自分の意志だけではなく神の意志を聞くよすがとしての「律法」が必要だということが示唆されています。奴隷の身を覚悟して父の家に戻った息子を、父は「自由の子」として迎え入れました。自由は、私たちの獲得ではなく、恵みによる愛の賜物なのです。

 しかし、律法の民としてのイスラエルは、この律法を生きておられる神の意志ではなく、自己貫徹の具に用いたのでした。悪いことに「割礼」がその支えになっていました。預言者に「国の民すべてに言いなさい。また祭司たちにも言いなさい。五月にも、七月にも/あなたたちは断食し、嘆き悲しんできた。こうして七十年にもなるが/果たして、真にわたしのために断食してきたか。あなたたちは食べるにしても飲むにしても、ただあなたたち自身のために食べたり飲んだりしてきただけではないか。」(ゼカリヤ書7章5、6節)という言葉が残されていますが、この指摘は正に律法全体にも当て嵌ります。こういう自己追求の生き方からは、パウロはそこに他者への愛が抜け落ちてしまうことを警告します。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(5章6節)。「愛の実践」とは他者と出会い、受け入れ、立ち止まって耳を傾ける、その為に必要なら自分を控え、譲って共に歩もうとする生活です。「十字架のつまずき」(5章11節)とは、そういう自分自身だけの世界の殻を破って出て行くことに他なりません。アブラハムが神から「わたしが示す地に行け」と聞いて、生まれ乍らの自分の延長線上にある「生まれ故郷、父の家」を、神の指示(律法)に従って、神と人との交わりの道に歩み出すことです。

 主イエスは「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイによる福音書5章17節)と言われました。そして、「律法全体」を神への愛と隣人愛に集約されました。「イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイによる福音書22章37~40節)。ルカ福音書では、その同じ教えを「実行しなさい。そうすれば命が得られる」(ルカによる福音10章28節)と約束されました。実に愛こそが律法を完成し全うして命を得る道、と言うことになります。従ってルカはこういう重要な教えの後に続けて「善いサマリヤ人の譬え」が語る主イエスを描き出して、「行って、あなたも同じようにしなさい。」(同10章37節)と命じられます。私たちが生きる世界には、何処にでも「愛」の機会があります。「飢え‥‥渇いて‥‥、旅をして‥‥宿(なしの)、裸‥‥病気‥‥牢にい」る(マタイによる福音書25章35~36節)「最も小さい者の一人」(同40節)が何処にでもいるからです。自発的な「自由」から出た行為としての愛を、慎ましく実践するとき、私たちは全ての律法を実行出来ない欠けだらけの者でありながら、主の赦しによって解放された者にとって、律法が全うしているのです。その時確かに、「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。」 主イエスの、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイによる福音書7章21節)という御言葉も、ここに実現されます。

12月21日降誕祭主日説教

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聖 書  ヨハネによる福音書 1章14節
説 教 「私たちの処に来られた御子」

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(14節)

 ヨハネによる福音書は、御子の降誕を「言は肉となって」、と言い表します。初めからあり、神と共にあり、神そのものであられる言が、肉となったのがイエス・キリストである、と言う訳です。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」(ヨハネによる福音書6章63節)と主イエスは仰ったころがありました。万物を創造し、永遠の光である言が、命に「何の役にも立たない」肉となった、と言うのです。さらには「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」(マタイによる福音書26章41節)という警告も主が弟子たちを教える諭(さと)しの中に聞かれます。弱くて燃える心を支え切れず誘惑に脆(もろ)いのが肉の性格だというのです。この弱さを受け止めて下さったことから主もまた誘惑を受け給い、それによって罪に堕ちることはなかったのでしたし、何時も完全に打ち克ち給いましたが、そういう弱い肉となって誘惑にさらされることが、どういうことであるかを、身をもって味わって下さったのです。「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブライ人への手紙2章18節)。このように人の肉を執って私たちの処まで来て下さったほどに、限りなく謙(へりくだ)って下さったのです。神の全能とは、何でも出来て、出来ないことは何ひとつないことですが、こうして身を徹底的に低くなることが出来給うことにも現れていると言えます。

 そして言は「わたしたちの間に宿られた」といわれます。また「自分の民のところへ来た」といいます。私たちが出向くのではないのです。「しかし、急いで出る必要はない/逃げ去ることもない。あなたたちの先を進むのは主であり/しんがりを守るのもイスラエルの神だから。」(イザヤ書52章12節)。言は永遠であって、そこからは無限に隔っていて、永遠に向かっては動けない私たちの肉の性格です。言が無限の彼方から私たちの処に来て、その上でわたしたちを動かし給います。それが聖書の降誕物語で確認されます。「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。‥‥』‥‥天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。」(ルカによる福音書2章8~11節、15節)。一方、長い旅をして御子を拝しに来た東方の学者たちは別でしょうか。ちょっと見ればあの場合は彼らの方から来たというように見えます。しかしこの場合も「言」が先行しているのを確認すべきでしょう。古くからあの地方にもたらされていたに違いない「ヤコブの星」伝承が思われます。「わたしには彼が見える。しかし、今はいない。彼を仰いでいる。しかし、間近にではない。ひとつの星がヤコブから進み出る。ひとつの笏がイスラエルから立ち上がり/モアブのこめかみを打ち砕き/シェトのすべての子らの頭の頂を砕く。」(民数記24章17節)。あの地方に連れ去られた神の民らが、やがて「間近ではない。ひとつの星がヤコブから進み出る」のを待ち焦がれて捕囚の屈辱を耐え忍んでいたのを、異教徒たちもつぶさに見て世界が曲がり角に来た、と言える降誕の時代にまで伝承されていた、と言うことです。東方の学者たちの出立に神の「言」が先行したのです。

 地上で蠢(うごめ)き回る以外にない私たち人間です。科学技術の未曾有の発達によって、人間には何でも出来るかのように錯覚する現代人の高慢が覆っている世界です。依然として「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」(マタイによる福音書6章27節)と言われなければならないことに何も変わりはないのです。そういう中で「貧しき憂い、生きる悩みをつぶさに舐め」る(讃美歌280)ことによって、私たちが逃げ回るか忘れたふりをしている惨めな現実を率先して受け止める為に、この言は来て下さいました。有るが儘の私たちの肉の姿を、神の御子は私たちに先んじて受け止めて下さいました。一切の高慢から解放され、有るが儘の姿に立ち戻ることは、思うほど簡単にはできないのです。ことに言としての神を失っても、痛痒を感じずむしろそういう事態を人間能力の成果と思い込んで、実はそれによって無限に人間としての無能性が暴露されることを悟らない高慢です。言が肉となり、それによって人はそういう倒錯した高慢から解放され、有るが儘に立ち至るのです。あの放蕩息子が全てを失い尽くした上で、「我に返った」ように(ルカによる福音書15章17節)。そこに立ち至って、放蕩息子が「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがある」のを思い出したように、「私たちはその栄光を見た」のです。そこにこそ、私たちが立ち上がって清くされる救いの為の「恵みと真理とに満ち」るのを見ることが出来ます。この私たちの処に来られた「言」と共に歩んでこそ、私たちは本当の自分に立ち返って自分に直面します。そうすると、言は私たちにとって真の希望と勇気となって下さるので、私たちは真実に生き始めるのです。

12月14日説教

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聖 書  ルカによる福音書 22章7~13節
説 教 「過越の食事の準備」

 「イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、『行って過越の食事ができるように準備しなさい』と言われた。」(8節)。
 「『‥‥、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。』 二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。」(12、13節)

 目下、私たちは神の御子の降誕を、心から迎える準備の時を過ごしています。聖書では、私たちの信仰をめぐって、この準備ということは、大変重要な意味を持っています。降誕から主イエスの生涯では最も時間的に遠い御受難の時も、それは例外でないばかりか、最も顕著に現れている、と言ってよいかも知れません。主イエスはこの時の弟子たちとの食事に、特別の思いを込められました。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」(15節)と言われるのです。永い神の民の歴史があたかもこの一点に流れ込んで来て、現在の苦難に意味を与え、将来を決定するからです。ペトロとヨハネの二人の弟子に準備が命じられますが、二人は主イエスが天に挙げられて後、使徒たちの宣教活動の先頭に立って、奉仕するようになります(使徒言行録3章1節、4章13節、8章14節)。そしてここで注意すべきことは、準備を命じる主の方では、既に完全な準備が完成している、ということです。「すると、席の整った二階の広間を見せてくれる‥‥」(12節)。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネによる福音書16章33節)。「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。」(同21章9節)。或いはより根源的には、被造世界の歩みが、天地創造の完成と神の安息から始まったことに、既にそれは示されています。(創世記1章31~2章3節)。

 明らかに主イエスは御自分の十字架の受難を、出エジプトの過越(出エジプト記12章6~9節)と重ね合わせておられます。そこでは、種なしのパン、全体を焙(あぶ)って食べ尽くすべき子羊の肉、苦菜などが、食されるべきものとして規定されています。それこそ正に私たちに代わって罪を除き、献げ尽くされる十字架の苦難によって受け止められることになります。例えば十字架に挙げられて「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」(マルコによる福音書15章34節)は、何よりも神の子羊としての主イエスが、屠られ尽くしたことの表れとして、私たちはそこに自分たちの罪のパン種が除かれたことを、首うな垂れて認めるでしょう。また、「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。」(ヨハネによる福音書19章28節)と描き出されたことも、子羊の肉を火で焼いて焙り(あぶ)食べ尽くすべき定めの、完全な「聖書の言葉が実現」成就したこととして受け止められます。

 主イエスの「切に願っていた」ことは、この時の食事がそのまま十字架後の新しい神の民の為の準備となることでした。これまでは民族としてのイスラエルを象徴していた過越は、主の御受難以降は全世界から選び出される霊のイスラエルとしての教会を象徴する聖晩餐(聖餐)を準備してゆくことになります。こうして神が歴史全体を貫いて準備して下さった救いを、受け止める私たちの側にも「準備しなさい」という勧めが響きわたります。そこで「ふさわしく‥‥自分を確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。」(コリントの信徒手紙一、11章27、28節)指示されます。この自己吟味は、独特です。焼き尽くされた子羊が、全き渇き果てて下さったことに、応答する「ふさわしく‥‥確かめる」ことであるとすれば、私たちの側も「焼き尽くされ」「渇き果てて」いるかが吟味される、ということです。神の前に立つことの出来る資格のないことを「確かめる」ことが命じられている「準備」です。それでこそ申し開くことの出来ない過去を正しく思い出して直視して悔い改めるということが、すでに完全に準備された神の側の赦しの恵みに、応える私たちの方での「準備」です。それこそが神の御手の中にある未来が、私たちに拓かれてくる現在の為に欠くことが出来ない営みです。過ぎ越され赦された過去の罪から、自由への解放されたキリスト者の歩みには、こうして主イエスの十字架がくっきりと立っています。それこそが私たちの開かれた未来を約束します。「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(コリントの信徒への手紙一、11章26節)。

12月7日説教

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聖 書  申命記 32章45~47節
説 教 「あなたたちの命の言葉」

 「それは、あなたたちにとって決してむなしい言葉ではなく、あなたたちの命である。この言葉によって、あなたたちはヨルダン川を渡って得る土地で長く生きることができる。」(47節)

 神の言葉がイスラエルの民をエジプトでの辛(つら)く屈辱的な生活から解放し、荒れ野を40年間導いてきました。神は、約束の地を目の前にする地点で、改めてこれまでの歩みを振り返って、神の民を呼び出し、支える言葉が「虚しい言葉ではない」と言われます。常に闇の勢力に脅(おびや)かされて、失われかねない存在を支え保ってきた言葉です。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」(創世記1章2、3節)。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネによる福音書1章1~5節)。ここでは「光」は、「混沌」である「闇」の「深淵」に打ち克つ力として輝くのですから、創造が単なる創造に終わるのではなく、それは同時に救いであり、又救いも創造であることが分かります。「だから、キリストと結ばれる人」つまりキリストによって罪とその結果である悲惨の闇から救いを頂いた者は、「だれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリントの信徒への手紙二、5章17節)。

 従って、それは同時に伝えられて行くことが必ず伴う言葉です。「証言」し「子供たち」に伝えよ、という命令が語られます。しかしそれは律法である前に福音であることを確認すべきです。その意味からも「むなしい言葉ではなく」、継承力を秘めた言葉であることを聴き取る必要があるのです。私たちは「アブラハム、イサク、ヤコブの神」を信じるのです。「神は、‥‥モーセに命じられた。『イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。』」(出エジプト記3章15節)。「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」(マタイによる福音書22章32節)。アブラハムからその子イサクへ、更にイサクからヤコブへと、神は初めから人を先人から世継ぎへとその御名を伝えられて行くお方として、御自分を啓示されるのです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒言行録16章31節)という約束を伴う命令が、大地震で全てのものが揺さぶられ、瓦解する最中(さなか)で語られました。何が失われるとしても、この約束の御言葉は廃(すた)れません。信仰継承の困難を嘆きがちな昨今、これも又「虚しい言葉ではない」ことを固く信じて持ち堪(こた)えるべき確かな約束です。命じられた言葉を実行しようとして叶わずに諦めてしまうのではなく、私たちには不可能で難しい命令というより約束として受け止め、約束して下さった神の可能性を信じ続けるべき御言葉です。

 「この言葉によって、あなたたちはヨルダン川を渡って‥‥長く生きることができる」と言われます。満々と水を滾(たぎ)らせるヨルダンの、渇いた底を神の民は渉(わた)りました。「ヨルダン川に達した。春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていたが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、川上から流れてくる水は、はるか遠くのツァレタンの隣町アダムで壁のように立った。そのため、アラバの海すなわち塩の海に流れ込む水は全く断たれ、民はエリコに向かって渡ることができた。」(ヨシュア記3章15、16節)。祭司たちが担ぐ「契約の箱」、つまり正に神の約束のみ言葉が困難の水底に担われていたのです。だから、神の民は先行き不透明を恐れません。明日のことも分からないのが私たち人間ですから、元々未来は不透明です。神の言葉なしの未来は暗く、明日のことが不明であることに耐えられない人は、その穴埋めに現在の繁栄を求めることに没頭します。「あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。」(ヤコブの手紙4章14節)。こういう有りの儘の現実を直視して受け入れることが出来るのは、時そのものの支配者である神を信じて委ねることを知っている信仰です。そうではなく、神を信じないでいると、人は刹那的になって現在が豊かでさえあれば、明日に希望が持てると思い込むわけです。しかし「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。」(ルカによる福音書6章24、25節)。これに対して信仰者は神の約束によって困難に見える未来を切り拓く粘り強い知恵や忍耐を学び取ります。私たちは御言葉に呼び出されて真に生きる者とされ、日頃忘れがちな「永遠を思う心」(コヘレトの言葉3章11節)を思い出して、「長く生きることができる」希望と忍耐の道に立ち帰って来るのです。

11月30日説教

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聖 書  ガラテヤの信徒への手紙5章7~12節
説 教 「十字架のつまずき」

 「兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。」(11節)

 「十字架のつまずき」をパウロは、福音的信仰になくてはならないものとして強調して、普通は避けるべき「つまずき」と鋭く対比します。隣人をキリストから遠ざけるような要因となる言葉や行動は、どんなに小さいものに思えても慎まなければならないからです。主イエスは、「‥‥、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」と戒めておられます(マタイによる福音書18章6節)。私たちが揺るぎないキリスト信仰に生きるには、「神の力」として働く主の十字架から離れてはならないからです。しかも主の十字架についてパウロは、避けてはならないどころか信仰にとって欠くことの出来ない要素として、正当にしっかりと受け止めなければならないと言うのです。「‥‥、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼〔バプテスマ〕を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。」と言い、更にそれに続けて「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(コリントの信徒への手紙一、1章17~18、23節)。

 何故そういう教えが強調されねばならないのでしょうか。それは、人には信仰を「神の力」ではなく、「人の力」によって維持しようとする誘惑があるからです。「割礼」はユダヤの極めて宗教的な生活を特徴付けるものでしたが、律法を遵守して神の前に「義」を確保する、という民族的な誇りの根拠となっていました。ですから「わたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするなら」、そういうユダヤ世界から「迫害を受けている」ような事態は起こりえない。そういう傾向はユダヤの伝統的な宗教世界に、何時しか「人の力」への依存が入り込んで、全体を覆う程になっていたからです。そうであればこそ、広く異邦人にも福音の門(もん)戸(こ)が開かれてゆくのを拒否して、主イエスを十字架に押しやる結果となったのでした。ペトロが主イエスに促されて、口にしたキリスト告白が主を喜ばせたとは言え、その信仰には主の苦難の十字架を受け入れない性格を残していたので、主イエスの十字架の御苦しみが前途に控えていることをはっきりと予告された時、「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』」と言い、主イエスその方から「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」という激烈なお叱りを受けなければならなかったのでした(マタイによる福音書16章22、23節)。此処にもキリストを信じて従う信仰が、「十字架のつまずき」を経なければ本物にならない、ということが典型的に現れています。ガラテヤの諸教会に語りかけているこの手紙を書いているパウロ自身も、十字架なしのユダヤ的誇りに凝り固まって教会を迫害した過去から、「十字架のつまずき」に激しく突き当たった上で、福音的な赦しの体験を主御自身から出る「神の力」に自らを委ねきり、新しい命の信仰に生みだされる真の喜びを知ったことが、裏付けられているわけです。

 とすれば、「兄弟をつまずかせないため」(コリントの信徒への手紙一、8章13節)と言って配慮豊かに行動するパウロに倣う私たちの隣人への細心の注意は、同時にそれが「十字架のつまずき」までも薄めるものになってはならないどころか、むしろそういう「つまずき」が激化される必要があるということに思いを致さなければならないでしょう。だれもゴルゴタの主の十字架なしにまことの信仰を持つことは出来ません。神の御子の十字架の死は、全ての人間的な可能性を呑み込んで虚しくしてしまう「ブラックホール」のような暗黒です。全能の神の御子だけが、そこを命を湧き出させる場となさいました。そこを通って来なければ、私たちは依然として何らかの人間の可能性や能力への依存や期待を捨てられずに持ち続けているしょう。そこには主イエスの御言葉が鳴り響きます。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない‥‥だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」(ヨハネによる福音書3章3、5~6節)。私たちの実際的、現実的な生活には、さまざまな恐れや不安に襲われる生活体験を免れません。そういう中で自らの脆さ弱さを誤魔化さずに、パウロと共に「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決め」る(コリントの信徒への手紙一、2章2節)ことこそが信仰の力そのものなのだ、と言うことを確認したいと思います。

11月16日説教

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聖 書  申命記 32章39~42節
説 教 「殺し、また生かす神」

 「しかし見よ、わたしこそ、わたしこそそれである。わたしのほかに神はない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わが手を逃れうる者は、一人もない。」(39節)

 これは神が御自身とその尊厳をお示しになっている御言葉です。神の自己宣言によって、神の存在は明らかです。古来、人は神の存在を証明する哲学を求め続けたことがありますが、無駄な努力に終わりました。人の手で、存在が証明されねばならなければ、逆に神は人の手で存在を否定出来ることになります。「神の慈愛と峻厳を見よ」とパウロは言いました(ロマの信徒への手紙11章22節・口語訳)。聖書が記録するこうした神の御言葉が、初めから神の尊厳に満ちた存在を宣言していることで十分です。この御言葉に率直に聞いて、世界とその歴史を見れば、どのような不信の時代にも、侮り得ない神の尊厳は一貫していることが見えて来ます。神は例え人に無視されても、それで存在を失うお方ではありません。むしろそういう不信の時代は、「まことにあなたは御自分を隠される神/イスラエルの神よ、あなたは救いを与えられる」(イザヤ45章15節)という御言葉が響きます。「‥‥、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイによる福音書6章6節)。こういう隠れた存在としての神を信じる信仰の一端を、主イエスは「時代のしるし(「時の徴」・口語訳)」を見分ける知恵(マタイによる福音書16章3節)としてお教えになっています。

 ここで、神は御自身を「報復し‥‥報いる」尊厳として、しかもそれを言葉の真実においてお示しになっていることに注目しましょう。「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ書55章11節)。「‥‥、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、『然り』と同時に『否』となったような方ではありません。この方においては『然り』だけが実現したのです。神の約束は、ことごとくこの方において「然り』となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して『アーメン』と唱えます。」(コリントの信徒への手紙二、1章19、20節、更にマタイによる福音書5章37節参照)。人間に言葉が軽く虚しく思えるのは、私たちの周囲の世界では、嘘や虚言が横行しその辻褄合わせに暴力が必然化するからです。戦争や金(マモン)は、何よりもそういう時の暴力装置として作用します。しかし神の言葉に嘘はないことは今引用した聖書の御言葉によって明らかです。その真実が貫かれるのを信じる時、それが「報復」と「報い」と言う結果を神はお現しになるのです。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と主は言われる』と書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。』悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマの信徒への手紙12章9~21節)。

 神は「殺し」、「傷付け」る神です。しかも「報復の神」は、「生かし」、「癒す」為にそうなさいます。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」(ローマ信徒への手紙6章8節)。死や傷にも、神の支配が及んでいます。神御自身が御子において死に給い、「報復」し、そこで「生かす」神としての尊厳を表されました。それによって神の御手が及ばない所はなく、「わが手を逃れうる者は、一人もない」ことが明らかになりました。「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。‥‥。」(詩編23篇4節)。報復の神は、そのまま同時に愛の神です。愛故に怒り、鍛錬する神によって、私たちは命に奮い立ちます。「また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。『わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。』あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。」(ヘブライ人への手紙12章5~7節)。罪人を追及して止まない神が、何処までも私たちを捜し求めて、伴ってくださいます。罪とその結果に報復して「殺し」「傷付け」る神が、愛に於いて私たちを「生かし」、「いやす」為にそうなさいます。「わが手を逃れうる者は、一人もない」ゆえにこそ、この愛から私たちを引き離すものは何もありません(ローマの信徒への手紙8章38、39節参照)。

11月9日説教

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聖 書  ガラテヤの信徒への手紙5章1~6節
説 教 「自由な身、奴隷の軛」

 「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(1節)

 「この自由」、つまりアブラハムとサラが自分たちの工夫によらず、神の約束を信じて待つ信仰によって得た自由です。アブラハムも妻のサラも、既に年老いて子を産む身体ではありませんでした。従って聖書は「死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。」(ヘブライ人への手紙11章12節)と言い、また「『わたしはあなたを多くの民の父と定めた』と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。」(ローマの信徒への手紙4章17節)と解説します。こういう神の約束に心を向けて信じまた待つ信仰が、信じ切れずに自分で事を始めてしまい奴隷の子を産む事に対して、「自由」の源とされるのです。「この自由を得させるために」キリストは十字架によって私たち全ての者に与えて下さいました。不妊のサラが子を産み、そこから夥(おびただ)しい民が生じてくる、という人間には不可能なことを可能にする神を信じることが「自由」を生み出します。「喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。歓声をあげ、喜び歌え/産みの苦しみをしたことのない女よ。夫に捨てられた女の子供らは/夫ある女の子供らよりも数多くなると/主は言われる。」(イザヤ書54章1節)。正に荒廃した世界が潤いを回復し、枯渇した荒野に豊かな命が甦ります。「そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。熱した砂地は湖となり/乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは/葦やパピルスの茂るところとなる。」(イザヤ書35章6、7節)。

 「自由の身」とは常に選択する自由を生きる者という意味です。人が生きてゆく道には、程度の違いこそあれ、何時も分岐点が待ち受けています。パウロは直ぐに「だから、しっかりしなさい」と言い加えます。選択はどちらを選ぶかその自由によって、「奴隷の軛につながれて」に逆行する機会ともなるのだから、選択を間違うなと強く勧めるのです。人が生きるのは創造の始めの時以来、こうした選択する自由が課題であり続けてきました。アダムとエバが楽園に置かれて、園のどの木からも食べて良いが、中央に植えられた「善悪の知識の木」からは食べるな、と神から指示されました。「主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」(創世記2章16、17節)。つまり、その時食べてはならないその木は、彼らの手の届かない所に植えられたのではなかったのです。食べることが出来るところに、食べてはならない木の実としてあったのです。食べないことも食べることも、彼らの選択の自由だった訳です。しかし、食べる自由を行使すれば死ぬ、と警告されていました。食べれば死に、そうすれば死の虜になり、自由が死にます。割礼による律法生活は、正に木の実を食べて、「奴隷の軛」の拘束に陥(おちい)ることでした。だから、自由とはどちらを選んでも良い自由ではなく、正しい方を選ぶ自由であり、神の意志に従順にそちらを選べば限りない命を享受する事が出来る自由なのだと言えるでしょう。

 聖書は、どちらも選べることを自由とは呼びません。「奴隷の軛」への選択は自由の放棄を意味するからです。キリストが与えて下さった自由は、キリスト御自身が御父の御旨に従い抜き、「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」(フィリピの信徒への手紙2章8節)であられた結果の賜物でした。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコによる福音書14章36節)。ここに私たちの始祖アダムが行使して死の虜となった自由の過ちを、第二のアダムであるキリストが修復して、正しく選択して下さった自由の転換点があります。私たちの「自由」もこのキリストを信じる信仰以外のものではありません。神の御旨に従う従順が真の自由です。御旨に逆らう所には自由はなく、自由の放棄と死があるだけです。「わたしたちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば力がある。」(コリントの信徒への手紙二、13章8節・口語訳)。キリストの弟子として従う従順の道こそ、いのちの漲(みなぎ)る自由の道です。主の御言葉にとどまり、主の弟子として主に学び続けることが、真実に私たちの自由の道です。「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。』」(ヨハネによる福音書8章31、32節)。

11月2日説教

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聖 書  ルカによる福音書22章1~6節
説 教 「除酵祭のイエス」

 「さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。」(1節)

 ルカは、パン種(酵母)を入れないパンを食べる除酵祭と過越祭を殆ど区別しないで語ります。かつて山で栄光の御姿に変わられた出来事の中で、イスラエルの過去の歴史を代表するモーセとエリアが現れたとき、「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(ルカによる福音書9章31節)と書いて、主イエスの十字架と出エジプト以来の長いイスラエルの信仰の歴史とを、そういう言い方ではっきりと関連させます。それは古い過去の出来事が、今を生きる信仰者の信仰の歩みに、深い関連をもっていることを、それによって示そうとするかのようです。あの時、エジプトを撃つ禍いが吹き荒れる中、「急いで、‥‥ぐずぐず‥‥」できなかった(出エジプト記12章11、39節)ので、パンをパン種ぬきで焼いたことが、永く覚えられることになります。それが又世にあって常に緊迫した姿勢を求められる私たちの信仰に、欠くことの出来ない要素でもあると言う訳です。ソドムが神の裁きの業火に焼かれようとしている時、主がロトに「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」と、命じられました(創世記19章17節)。或いは主イエスは、主に従おうとしている弟子に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と誡めておられます(ルカによる福音書9章62節)。

 民の指導者たちを自認する祭司長や律法学者たちの主イエスを殺す謀議が繰り返される中で、「‥‥サタンが入った‥‥」(3節)と言われます。民を指導すべき人々が「民衆を恐れていたのである」と福音書は語ります。正に、彼らが神を恐れなくなった結果だった訳です。こういう場合、人々は何よりも神を恐れて判断している、と大まじめに考えるでしょうが、実はそういう仕方で神を恐れなくなっていることに気付きません。神を恐れているつもりの彼らを、この時支配しているのは正に「入ってきたサタン」です。だから、彼らは「金」で神の御子を取引きしようとしさえ始めたのです。不思議な事に、それが一切をみそなわす全能の神による「パン種」を取り去る御業となったのです。神は御子の十字架によって、「サタン」を決定的に除き給いました。サタンは神の子を十字架につけようとする人々を操(あやつ)り抜いて、遂にその意図を果たすことに成功し勝利の凱歌を上げたかも知れません。しかし、それがサタンの決定的な敗北となったのです。そこに現れるのは、サタンではなく、まことの神の栄光でした。

 その事の故に私たちにも、信仰の日常生活にあって禍いを過ぎ越し、罪の「パン種」を除酵する日々とすることが出来るようになりました。常に私たちの中に、パン種(酵母)があって命の道を阻(はば)んでいます。「急いで」「後ろを振り返らず」に、「ぐずぐずして」いると、パン種はどんどん膨れ上がります。不安や恐れに憑(つ)き纏(まと)われ、私たちは「神のことを思わず、人間のことを思って」(マルコによる福音書8章33節)、それが平気になってしまいます。「あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。」(コリントの信徒への手紙一、5章6~8節)。パン種の除酵を祭とし続けた神の民は、人の人格に潜む罪の深刻さを知らされ続けました。生ける神を仰いで生かされる神の民は、殊の外罪の事柄について敏感さを養われます。「地上の全部族の中からわたしが選んだのは/お前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちを/すべての罪のゆえに罰する。」(アモス書3章2節)。神の子の十字架の死によってしか除き得ず、私たちも御子の死に与(あずか)らなければ過ぎ越すことの出来ない禍いを知るのです。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネによる福音書12章24節)。「あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。」(コリントの信徒への手紙一、15章36節)。そこに、禊(みそ)ぎなどによっては変わらない人間とその歴史意識が、「心の底から新しくされ」(エフェソの信徒への手紙4章23節)て命の道に踏み出して行き、人々の生活や歴史を神の御旨のなる場として、変革し改革してゆく着実な希望と喜びの歩みへと変容してゆくことになるのです。

9月21日説教

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聖 書  ガラテヤの信徒への手紙4章28~31節
説 教 「自由な身の相続人として」

 「しかし、聖書に何と書いてありますか。『女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである』と書いてあります。」(30節)

 「奴隷の子を追い出せ」とパウロは原則化したように語りますが、元はアブラハムの妻サラの悲鳴の訴えから出た言葉です。「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」(創世記21章10節)。つまり、神の約束を信じ切れずに、自分で事柄を解決しようとした結果の混乱と苦しみの愚かさが、思われます。既に年老いて、子を産む年令を疾うに過ぎたアブラハムとサラに、子が生まれると神はアブラハムに約束を与えました。その言葉を物陰で聞いていたサラは、生涯子が産まれず、まして年老いた自分を自嘲して笑い、咎められました。(創世記18章12~15節)。そういうサラが、女奴隷のハガルをアブラハムに差し出して、イシマエルが生まれました。しかし、神は約束の言葉を違(たが)えず、二人の間にイサクを誕生させ給うたのです。サラは今度は心からの喜びに溢れて、「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を/共にしてくれるでしょう。」(創世記21章6節)と言います。パウロはここに福音に生きる自由の、解放された「笑い」の秘密を読み取っています。

 「自由な身」とはアブラハムとサラが、神の約束に生きる姿を指します。約束を信じ切れず、自分の虚しさや弱さを自分で解決しようとするのが奴隷の道です。女奴隷ハガルを差し出して、サラは解決を図りました。注目すべきはサラのそうした姿勢であり、その提案を受け入れて、神の約束から逸れたアブラハムの不信仰です。神はそういう不信から彼らを信仰へと導き出されるのです。したがって、これは女奴隷ハガルの身分の固定化が意図される訳ではありません。自由の身分を自認するイスラル民族の一員でも、罪を犯すなら罪の奴隷だ、と主イエスは指摘されるからです(ヨハネによる福音書8章33、34節)。「信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。」(ヘブライの信徒への手紙11章11、12節)。神の約束を信じて歩むのが「自由の身」であって、人間の力への依存が、迫害(29節、創世記21章9節)や高慢と侮辱(ルカによる福音書18章11節)を生み、幼児を斥ける大人によって神の国への道が閉じる結果を生じるのです(マルコによる福音書10章13、14節)。それこそ罪に縛られざるを得ない奴隷の生き方であり、そういう命の道を結局塞いでしまう「女奴隷とその子を追い出せ。」という言葉が、全ての人に向かって語られるのです。

 神の約束が未来を拓きます。私たちは、キリストの福音によって自由にされて、受け継いでゆくべき相続人とされます。「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマの信徒への手紙8章17節)。サラのあの自嘲の笑いが、救いの「笑い」に変わる所に潜む悔い改めの要素を読み取りましょう。それが未来を閉ざしかねない苦しみを神の約束に立ち帰るために身を翻す転換点にするのです。そして、約束に生きるには、今の空虚や自分の無力を受け入れねばなりません。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。‥‥信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。」(ヘブライ人への手紙11章1、7節)。「イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」(ヨハネによる福音書20章29節)。そこで神の約束への私たちの対応は、問いとしての神への祈りです。神は約束に忠実だということを信じるならば、神は全ての問いに答を持っておられることを信じて委ねます。私たちの苦しみ全ては、この問いを「求め、探し、門をたたき」(マタイによる福音書7章7節)、問い続けて、神の約束を信じて待つ為のものです。全ての苦しみは産みの苦しみに他なりません。そこで私たちは限りない命の世界に向かって心を開きます。そこで、私たちは「自由な身の相続人として」聖書と共に歌い続けます。「喜べ、子を産まない不妊の女よ、/喜びの声をあげて叫べ、/‥多くの子を産むから。」と(27節、イザヤ書54章1節)。

9月14日説教

聖 書  ルカによる福音書21章29~33節
説 教 「決して滅びない主の言葉」

 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(33節)

 十字架が迫っている時に、弟子たちの質問に答えて、主イエスはこの世には終わりのあること、その終わりの時の様相がどのような事態かを教え給います。それは恐るべき滅びの時であると共に、又真の希望の時であることを、春から夏にかけてのいちじくの芽吹きに譬えらるのです。「それから、イエスはたとえを話された。『いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。」(29~31節)。元々聖書ではいちじくの木は、実を結ばない為に神の裁きを受ける民への警告の題材として語られることが多い木です。「悲しいかな/わたしは夏の果物を集める者のように/ぶどうの残りを摘む者のようになった。もはや、食べられるぶどうの実はなく/わたしの好む初なりのいちじくもない。」(ミカ書7章1節)。主イエスも又、実を付けていない故にひとりの旅人の空腹をさえ癒さないいちじくへの呪い(マルコによる福音書11章13、14節)や、同様に三年も実を付けずにぶどう園を塞いでいる為に、農園主に切り倒されそうになるいちじくの譬え(ルカによる福音書13章6~9節)などをお語りになっています。そういういちじくの木が「ほかのすべての木」と同じように芽吹くことを語るところから、神の裁きが執行される所にこそ、真実の希望の芽吹きがあるということを聴き取るように促されるのです。

 裁きは神の言葉としての御子を十字架に殺す私たちの世に下ります。万物は、言として私たちの間に宿った御子によって造られ、支えられています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。‥‥言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネによる福音書1章1、14節)。「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」(コロサイの信徒への手紙1章16、17節)。従って、この御子を十字架に追いやる世は、自らを造り支えているお方を滅ぼすのですから、自ら滅びざるをえないのは当然の成り行きです。しかも御子は十字架において、この世の滅びを御自分に引き受け、負い抜き給き給いました。そうして一切の裁きを、救いの希望に打ち替えられたのです。これによって御言葉としての比類のない堅固さを啓示されました。正に、十字架は「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」という真理を顕したのです。預言者のエリヤは、主の前に立ち、主が通り過ぎて行かれるのを見、激しい風と山を裂き岩を砕く破滅的な出来事を通して、風や地震や火の中に主は居られず、それらが全て収まった静けさの中で、囁(ささや)く主の御声を聞きました(列王記上19章11、12節)。つまりどの様な破壊的な崩壊現象にも、決して主の言葉は滅びずに、静かにいかなる地上的人間的な力よりも、遙かに強く耐え抜かれる、という訳です。こうした主に支えられるなら、「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ」、「栄華を極めたソロモン」も装えないほどの美しさで着飾って」いる(マタイによる福音書5章29、30節)、ということが言われるのです。

 この御言葉によって立つ時代は支えられます。「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。」御言葉によって立とうとしない時代は、どのように繁栄を謳歌しているようでも、神による破滅と崩壊を内に秘めています。神の御言葉に聴いて、ノアは好天の続く日々にも洪水に備えて箱舟を造りました。又、ロトはソドムが世の悦楽に我を忘れる中で、神の裁きに備えました。聖書はその様子を描き出します。「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。」(ルカによる福音書17章29~30節)。言葉としての御子を斥(しりぞ)ける世に、御子は来たり住み給うた(ヨハネによる福音書1章11、12節)ので、この御子がい給う限り、そして御子の御言葉に忠実に生きる限り、この時代は滅びないと言われます。十字架で示された滅びが、人類の唯一で最後の希望です。従って神の民は、窮乏を極めた荒れ野で(申命記29章4、5節)、民族として滅亡を舐(な)め尽くしたバビロンで(イザヤ書48章18、20節)、神の言葉を聴いて支えられ、死の滅びから命に呼び出されました。私たちも同じです。世の繁栄は脆(もと)く、栄華もはかないものです。その中で、御言葉に聴き支えられ、生きることの大切さを噛みしめましょう。

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