2021年1月27日祈祷会(歴代誌下第33章)
歴代誌下第33章
「敬神の王」と称賛を送られるほど、民の信仰を導いたヒゼキヤ王の治世が終わりました。しかし次の王マナセは、ヒゼキヤの事績を無に帰すような「主の目に悪とされること(2節)」を行います。さらに次の王、アモンも同じく「主の目に悪とされることを行い(22節)」、たった二年の治世を終えていきます。二代続けて主に背く王のもと、民の信仰は惑わされ(9節)、アッシリア帝国に攻め込まれ(11節)、謀反によってアモン王は殺害され(24節)、国は荒んでいきます。ヒゼキヤ王を用いて王国を導かれていた神さま。しかしマナセ、アモンの時代に国ごと不信仰へと堕ちていきます。このような時代、主は御自分がお建てになった王国を、そこに住まう民を、どのようにお導きになるのでしょうか。
1.人生の重荷を負えないマナセに主は語りかける
12歳で王位についたマナセ王は、ヒゼキヤが苦心して取り除いた聖なる高台を再建させます。いけにえとして自分の子をささげ、占い、まじない、魔術、口寄せ、霊媒と、神さまが禁じられたあらゆる背信の行為をことごとく行います。また「天の万象の前にひれ伏し(3,5節)」ます。たくさんの偶像も、神殿に置かせ、拝んでいました。自然現象、そして偶像と、目に見えるものにひれ伏していきます。
マナセの姿から、思い当たるものがあります。占いに一喜一憂し、魔術に目を奪われ、口寄せや霊媒といった、誰の言葉かわからないものを信じて生きていきます。自然現象にひれ伏して、目に見える偶像をたくさん置いて、拝みます。子供を犠牲にする姿に、次の世代を顧みず、自分の身の現在の利益ばかりを追求する利己心が浮き彫りにされています。
次の世代を犠牲にして、手当たり次第のものに判断を委ね、頭を下げるマナセ。彼は、人生の責任を自分で取ることが出来ない弱さを抱えていたのではないでしょうか。だから手当たり次第にすがりつき、子供を犠牲にし、目に見えるものを伏し拝む。それは自分の人生の責任に耐えかね、次の世代への責任を負えないようにも思える姿です。
彼はヒゼキヤから受け継いだ、豊かな国を導く大役がありました。王としての責任は重大だったかもしれません。そんな彼とは単純には比べられませんが、誰しも生まれついた命の重みがあります。そこに、その人にしか果たし得ない責任が伴います。その責任を果たしながら、次の世代に世界を託していかなければなりません。
しかし自分の人生の責任の重さに耐えかね、自分にとって都合のよいことにすがり、それに頭を下げ、支配されてしまうことがあります。信仰の道であっても起きうることです。マナセの姿のなかに、すべての人が持っている、人生の責任の重さに耐えかねる弱さが、凝縮しているようにも思わされます。
しかし主は、このような弱さを抱えるマナセにこそ語り掛けつづけます。「主はマナセとその民に語られた(10節)」。人生の責任の重さと、不安から、なんにでも頭を下げてしまうマナセを、怒りつつも憐れんでいたのは主御自身でした。主はお怒りになっても、マナセに語り掛けることをおやめにならないのです。
2.王国から遠く離れた苦悩のなか、祈る人になる
ついに主は、御自身に立ち帰らせるために、厳しい仕置きをなさいます。「そこで主は、アッシリアの王の将軍たちに彼らを攻めさせられた。彼らはマナセを鉤で捕らえ、一対の青銅の足枷につないでバビロンに引いて行った(11節)」。「鉤」というのは、本来は獣を捕えるときに用いる金属製の道具です。アッシリアは青銅の足かせをつないだまま、この「鉤」で引いていきます。マナセ王を獣同然に扱い、屈辱を与えます。手当たり次第にすがりつき、新しい世代を犠牲にして、目に見えるものを伏し拝む。マナセの姿は、あたかも尊厳を損なった人間の象徴のようにも写ります。
エルサレムから遠く離れた地バビロン。そこで、マナセは祈りの人に新しくされていきます。「彼は苦悩の中で自分の神、主に願い、先祖の神の前に深くへりくだり、祈り求めた。神はその祈りを聞き入れ、願いをかなえられて、再び彼をエルサレムの自分の王国に戻された。こうしてマナセは主が神であることを知った(12、13節)」ある人は、マナセ王を「旧約聖書中の放蕩息子(H・マーシャル)」と評します。豚のイナゴマメを食べていた放蕩息子が、悔い改め、父のもとに帰って行きます。そして父の恵みに活かされている自分の姿を取り戻します。神さまから王国を受け継ぎながら、恵みを台無しにして、獣同然の扱いを受けます。苦悩のなかで主に立ち返るマナセは、たしかに放蕩息子のようです。
マナセにしか見られないものもあります。祈りです。このときのマナセが祈りは、旧約聖書の続編(カトリック教会は聖書に含む)に「マナセの祈り」の名で収められています。このような言葉があります。「いつまでも怒り続けてわたしに災いを下すことなく、罪に定めて、地の奥底に捨てないでください。主よ、あなたは悔い改める者の神だからです(マナセの祈り14節)」ここにはマナセに示されたまことの主の御姿が豊かに語られています。悔い改める者の神となってくださるお方が主なのです。
「こうしてマナセは主が神であることを知った(13節)」。人生の責任をとることのできない弱さを抱え、あらゆるものに頭を下げ続けてきたマナセは、自分の人生の主人が神であることを知りませんでした。しかし王国から遠く離れたところで苦悩し、祈るなかで、主が神だと知ったのです。
3.命の重みはそのままに、神の王国に生きる平安
国に戻されたマナセは、心を入れかえエルサレムのために尽くします。偶像も取り除いていきます。こうしてマナセは回心するのですが、民のなかに背信の頃のしこりが残りました。「しかし民は、彼らの神、主に対してではあるが、依然として聖なる高台でいけにえをささげていた(17節)」さらに、その次の王アモンは、ただ主なる神さまに背くばかり、短い治世に終わります。
マナセの祈りと悔い改めはこの時ばかりのものだったのでしょうか。そうではないと思います。マナセは、苦悩のなかでささげた祈りの姿、そして主を神と知る奇跡を遺してくれました。「神はその祈りを聞き入れ、願いをかなえられて、再び彼をエルサレムの自分の王国に戻された(13節)」彼が、バビロンに囚われながら祈ったことは「王国に戻る」ということでした。彼は神の王国に戻ったのです。
「自分の命の責任は、自分で取る」ことが当然のように語られる地上にあって、わたしたちの不安が尽きることはありません。命は、わたしたちが一人で負うには重すぎるのです。不安のあまり、不確かな言葉に依りすがり、判断を委ね、目に見えるものを羨み、ひれ伏してしまいます。次世代を犠牲にして利益を追い、人間の尊厳を失うことすら起きます。
マナセが苦悩のなかで祈り、まことの神と出会ったとき、彼は人生の主人が神であることを知りました。自己の命の責任をとってくださるお方がいるのです。重荷を背負ってくださるお方がいるのです。その方が主である神なのです。
囚われ、十字架へと引かれていくなか、苦悩のなかで祈る姿を示されたイエス・キリスト。この方こそ、わたしたちの主です。罪の囚われまで、一緒に来てくださり、そこにも神の王国があることを示してくださいました。主は御自分がお建てになった王国に、必ずわたしたちを引き戻されます。それほど神の王国は地上に突入しきっているのです。その命の主が、命の用いどころもすべて示してくださいます。主は、悔い改める者の神なのですから。