1月28日説教のポイント(郡上八幡伝道所)

「  愛でたし、わたしの宝よ  」

 一般的には、教会というと、建物のことを語ることが多いようです。また、建物を見て、入るか、入るまいか。見た目を一つの参考にもするのかもしれません。しかしすでに、礼拝をささげるものとされたわたしたちにとり、こうして与えられた快適な環境も、恵みであって、礼拝のための神様へのささげものです。その点、この礼拝堂も、心を神様に集中して向けるための、祈りが込められたところだと感じます。 

今日、与えられたマラキ書、旧約聖書の最後の預言書です。並びのとおり、旧約の時代、すなわちイエス様が来られる前の時代です。比較的新しいころの出来事を書き残しています。当時の神の民も、神殿が完全に破壊されるという悲しく、苦しい出来事を経験しました。バビロン捕囚です。無謀な戦争をしかけたうえ、大帝国バビロニアに国土を完全に破壊され、神殿は跡形もなく、消え去ります。

マラキ書が記されたのは、バビロン捕囚から解放され、戻ってきた後の頃だと言われます。マラキよりも少しまえの預言書、ハガイ、ゼカリヤが神の言葉を語ったころ、人々は、力を合わせて神殿を再建しました。苦しい試練のあとに、やっと礼拝がささげられる。信仰豊かに歩みを続ける。かと思いきや、どうもそうではなかったようです。5節を読みます。「裁きのために、わたしはあなたたちに近づき、直ちに告発する。呪術を行う者、姦淫する者、偽って誓う者、雇い人の賃金を不正に奪う者、寡婦、孤児、寄留者を苦しめる者、わたしを畏れぬ者らを、と万軍の主は言われる。」

5節が示すように、せっかく再建した神殿で礼拝がささげられたにも関わらず、世は、なかなか神様の正義が行われない現実に、民はなやんでいました。

マラキ書は、主なる神様と、集える会衆の対話のような形をとっています。あたかも礼拝のなかで、主なる神様の言葉が預言者を通して語られ、会衆と語り合っているかのように記されます。会衆は、報われない現実に、落胆を隠しません。さきほどお読みした5節の現実は、落胆と疑いの最たるものでした。

さて、これに対して、主はマラキ書を通して、一つの重大な思い違いを丁寧な言葉で示していきます。今日与えられたみ言葉では、それが、3節のところでした。

彼は精錬する者、銀を清める者として座し、レビの子らを清め、金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に献げ物を正しくささげる者となるためである。

神殿を再建し、ふたたび礼拝をささげることとなった民、とくに「レビの子ら」と言われる、当時の宗教指導者たちは、大きな思い違いをしていました。それは、これほどの立派な神殿をわたしたちの努力で再建し、献げ物をしているのだから、世の中が報われていいではないか。というものです。ここには礼拝を捧げるものが、陥りやすい、どの時代にもありうる、根本的な間違いがあります。1節を読みます。

見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者、見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。

ここで注目したい言葉は、「あなたたちが喜びとしている契約の使者」という言葉です。すなわち、主なる神様と、救われた民の間には、契約の関係があるという根本的な考え方です。

旧約の歴史において、この契約を「結ぼう」と先に言われたのは誰だったでしょうか。それは主なる神様のほうでした。ノアにしても、アブラハムにしても、モーセにしても、ダビデにしても、この罪に弱い民をご自分の民として愛するために、契約を結ぼうと言ってこられたのは神様です。すべてを御手のうちにおく、主なる神と契約を結べば、罪を犯しても赦しのもとに置く。そのための礼拝であり献げ物でした。神の民としての契約にもとづく感謝の応答です。あくまでも先行するのは、神様からの恵み。救われたものは、応えることができるのみなのです。

②マラキのころは、そうして恵みの御業に民が疑いをもっていました。しかし主は御怒りなさらず、契約の使者を送ると言われます。さきほど読んだ1節のなかで、前半をもう一度見てみます。「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。」ここは、少し丁寧に読みたいところです。さっと読んでしまうと、「わたし」、「使者」、「主」が誰なのかはっきりしません。そこで1節を最後まで読むと、あなたたちが喜びとしている契約の使者、見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。「契約の使者」を送るのは「わたし」である「万軍の主」であることがわかってきます。そして、この「契約の使者」は、なにをするために来るのかというと「精錬する」ために。もう一度3節を読むと、「彼は精錬する者、銀を清める者として座し、レビの子らを清め、金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に献げ物を正しくささげる者となるためである。」 

さきほど語ったように、当時は、人が献げ物をすれば神様が応答してくださるという大きな誤解がありました。これを正しくするために、「契約の使者」が送られる。

実際、この預言は成就いたしました。マラキ書は旧約聖書の最後の書物。新約の時代となり、まず洗礼者ヨハネが使者となり、主イエス・キリストの到来の道備えとなります。ヨハネは、自分の正しさだけをささげることで救われようとする人たちへ、悔い改め、すなわち正しい神様への向き直りを進めました。さきにわたしたちを愛してくださったのは、神様でしょう。正しさを誇ることは、順序が逆さまですよと。宗教行為さえ正しく行っていれば、義とされるという勘違いを指摘します。

こうして、ヨハネの働きにも現れているのが、「契約の使者」のつとめでした。これが2節と3節でいうところの精錬です。だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。

 どうもこの預言者は、金や銀が精錬される現場を知っていたようです。高熱で金、銀を熱して、不純物を取り除く仕方。「誰が耐えうるか」というように、高熱で熱せられるさまは、あたかも厳しい試練を連想させます。しかし、この精錬は、金や銀、すなわち宝物が輝きを取り戻すためには、決して悪いことではないとも、預言者は知っていました。主なる神様が、本当に精錬し、輝かせたいのは、目に見える不完全な献げ物などではないと。むしろ契約の使者によって信仰を精錬された、あなたがた自身なのだと言うのです。

 ここで金、銀と用いるのは、本当に神様にとって、宝物のような大切な存在であるという御心を示そうとしているからです。今日、与えられた御言葉のあとに、宝という言葉が実際、出てきますので、読んでおきます。1ページめくっていただいて、17節です。わたしが備えているその日に、彼らはわたしにとって宝となると、万軍の主は言われる。人が自分に仕える子を憐れむように、わたしは彼らを憐れむ。

 ここでの「憐れむ」という言葉は、大事に、大事に、しまっておきたいほど大切だという意味です。宝物を、宝箱にしまっておくほどに、輝かせたいもの。

 そうして、愛でたい宝物が輝きを取り戻すために、さきに遣わしてくださるのが、道備えの使者だということになります。その日のために、主の御前に立つとき、わたしたちにとってなくてはならない存在。

では、いまのわたしたちにとって、「契約の使者」とは誰になるのでしょうか。主が、その日のために、予め、わたしたちに送ってくださると言ってくださる御言葉はないでしょうか。

あるのです。ここを読んでおきましょう。世を去っていかれようとするイエス様が語ってくださった御言葉です。少し長いですが、読んでおきましょう。ヨハネによる福音書第1425-28節です。どうぞ、じっくりお聞きください。「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、助けてくださる方、すなわち、父が、わたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな、おびえるな。『わたしは去っていくが、また、あなたのところへ戻ってくる』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。

イエス様は、助けてくださる方、聖なる霊をいま送ってくださると約束してくださいました。そしてその日にはやがてまた来られると約束してくださいました。

この整った環境において、礼拝をささげることができて感謝です。礼拝は大きな祈りでもあります。本来、神の御前に祈りをささげることもできない、すなわち神様の大きな恵みのまえに、ただしく応えることもできないわたしたちです。だからこそ、契約の使者である聖霊の執り成しが必要なのです。執り成してくださるキリストの聖霊。だから、礼拝をささげることができる。ふさわしくないところは精錬するように取り除いてくださって、輝ける神様の宝物にしてくださる。その日まで、わたしたちが、磨きに磨かれた金や銀にも劣らない宝物となれるように、わたしたちにとっての「契約の使者」、聖霊が、精錬してくださると言われるのです。ちゃんと、神様とわたしたちの間に立ってくださる方がいるのです。安心です。平和です。

かくしてわたしたちは、己を誇るような律法主義の逆さまなやり方から解放され、聖霊の恵みを受け取ったものにしかできない、明るい礼拝をささげるものとされました。わたしたちは罪に弱いがゆえに、神様にすべてをいただける愛される宝の民です。欠けの多いわたしたちが、キリストの霊に執り成され、精錬されながら礼拝をささげるたびに、神様はそれでこそキリストを世に送った甲斐があったと、天上において大喜びしてくださいます。父、子、聖霊の御名によって。アーメン。

祈りをいたします。あなたの御前に良い物を、良い物を捧げたいと願うわたしたちです。けれども、たえざる大きな恵みを知るほどに、とてもそれに見合うものを捧げることができない無力を感じます。しかし主よ、あなたはそれでもよろしいと、そのために使者を遣わし、導くと言ってくださいました。礼拝のたびに、浄められ、少しずつでもあなたの宝にふさわしくされていることを知り感謝です。今日も、聖霊の働きによって、磨かれ、精錬されました。それぞれの生活に戻っての新しい一週も、一日一日をおささげしたいと願います。どうぞ、聖なる霊、契約の使者を遣わしてください。執り成してくださる救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。

1月21日説教のポイント(郡上八幡伝道所)

「  召された処にとどまって  」

先週、木曜日、日韓教会青少年ツアーの会合に出かけてきました。今年の夏、今度は韓国の青年たちをお招きします。この委員会で、長く、指導的な役割をしてくださった在日大韓の先生が退任されることになり、ささやかな送別会が開かれました。そこで、話題となったのが、今年刊行される予定の、新しい日本語の聖書です。その先生は、翻訳委員会にも携わっておられたということでした。新共同訳が用いられて約30年。日本語も変わり、聖書の神学が発達し、研究が深まる。当然、訳も変わってきます。その先生は、いくつか論争があった有名な部分が新しい訳に変わることを、「ここだけのはなしですよ」と言って、教えてくださいました。

神学校での学びのおかげで、ヘブライ語とギリシャ語がどうにか読めるようになって、喜びでしたが、驚いたのは、翻訳に絶対はないということでした。それまで大切にしていた聖書でしたが、翻訳は完全ではないですよ、と言われたとき、すこし落胆しました。しかしいまは、絶対の翻訳がないことは、むしろ神の言葉の完全性の裏付けであるように感じます。人間の言葉は不完全ですが、生きておられる神様の言はまこと。それが、聖霊なる神様の力で、いま、そのときに、必要な、ふさわしい御言葉の意味を、かならず聞かせてくださるからです。

 今日のみ言葉は、じつは長年、翻訳の論争が繰り広げられてきたところでした。あとでそこに少し触れますが、そういった人間の側の営みを超えたところで、動くことのない神様の御心を聞くことができればと、聖霊の働きを祈りつつ、たずねていきます。

まずパウロは、割礼の問題から取り扱っています。割礼は、肉体に傷をつけることによって信仰の有無を見た目にたよる掟です。御承知のように、パウロは、徹底的に、人間の業によって信仰の証しをたてることに反対しました。ガラテヤの信徒への手紙ではとくにその傾向が強いです。この、第一コリントでは、そのような傾向は薄いですけれども、やはり、割礼を代表とする律法によって義とされることに反対します

 ところが、19節を良くご覧いただきたいと思います。読みます。「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。」これは、すっと読み進めてしまいそうだが、見逃せない矛盾とも言えるものを含んでいます。なぜならば、「割礼」も神の掟だからです。パウロがキリストに召し出される前、かつて学んだときに身をおいたユダヤ教ファリサイ派は、神の掟を、真心を込めて熱心に守ることには大賛成だった。その帰結としての律法によって義とされることであり、割礼は絶対条件だったということです。ユダヤ教にしてみれば、「大切なのは神の掟を守ることです」と言った以上、「割礼の有無は問題ではない」というのは、理論が破たんしているようなものです。しかしパウロは、敢えて、そう語ります

パウロの論理は破たんしていているのだろうか。そうではありません。パウロの主張を正しく受け取るためには、23節が重要になってくる。「身代金を払って買い取られた」。これがなんのことを示すか、です。パウロはこれらの御言葉のまえ、第6章でこのように語ります。お聞きください。20「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」。キリストの十字架によってわたしたちは、イエス・キリストに結ばれ、神のものとなったと、パウロは考えますしたがって、ここで、割礼は救いの条件ではなくなっています。「割礼の有無が問題ではない」という言い方は、割礼を禁じるものではなく、文字通り、問題にはならない、「救いの条件にはならない」という意味なのです。

つまりパウロは、キリストを信じて救われたのであれば、神が十字架によって命を捨てるほどに、わたしたち一人一人を大切に愛してくださっているという真実を、神の掟として大切にするべきだと言いたいのです。「神の掟を守る」というように訳されているが、もともと、この「守る」というのは、まなざしをそこにおいて、じっと見つめて、目を離さないという意味です。十字架のイエス・キリストがわたしの救いである、これがパウロにとっても、そしてわたしたちにとっても、目を離すことができない真実であると語るのです。

この当時、コリントの教会では、キリストの救いを信じながらも、その自分を確かめて、そして他の人に主張するために、割礼の跡を消してみたり、逆に、割礼を受けることを主張したり、とかく、信じ始めた自分の在り方を正当化するために、浮足立った行動があったと見受けられます。これを、パウロは戒めます。たしかに、キリストを信じ初めたところで、その自分がなにか劇的に新しく変わったわけではない。それでいいのだろうか、不安になって、言葉や行いで、外に示してみたくなる心境もわからなくはありません。しかし、それに心を奪われますと、「キリストの物として買い取られた」という真実から、目がそれてしまいます。キリストに買い取られたことを信じ、かつそこに平安を得る、これは、きわめて内面的な問題です。キリストの十字架に愛されたもの、目に見える証しは問題ではない。とパウロは言いたいのです。

こうしてパウロは、キリストのものとされた、内面的な真実に目を向けさせたところで、見た目の問題、すなわち身分の問題として、奴隷を取り扱っている。わたしたちにとって理解に苦しむかもしれないのは、21節です。「召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい

むしろそのままでいなさい」。という言葉は、じつに議論を生じさせる言葉です。なぜならば、これは「奴隷でいる人は、奴隷のままでいなさい」と言っているに等しいからです。これが冒頭で触れた、翻訳上の問題です。新共同訳の前の、口語訳はこうなっています。「口語訳:しかし、もし自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい。」当時は解放奴隷として、奴隷から一般市民になる制度がありました。パウロはそのチャンスがあれば、用いなさいと言っているようです。どうでしょうか、まったく違います英語の聖書をかなりの数、あたってみました。ほぼすべての聖書が、「もし自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい」という訳でした。そうなると、わたしたちの新共同訳は間違っていることになるのでしょうか

じっさいのところ、こうした聖書の翻訳上の問題は、たくさんあります。神様が、旧約聖書にはヘブライ語やアラム語を選ばれ、新約聖書にはギリシャ語を選ばれたことは、わたしたち人間の理解をはるかに超える出来事です。そうなっている以上、それらの言語から考えていくよりほかありません。それぞれの理解に理由があります。ここは、どちらが正解か、間違っているか、という判断にこだわらず、わたしたちは、どちらの翻訳であったとしても、変わらない本質はどこか、を考えたいと思います。これが、さきほどの割礼論争と結びついてくるのです

それは、「召された処から動かない」ということです。そして、「動かない」というのは、割礼の有無という見た目に拘ることや、奴隷であるか、自由人であるか、という身分にこだわることではなく、「キリストの十字架によって、買い取られ、キリストのものとされた自由に生きる」、そこから動かないということです。さきほどは、「『神の掟を守る』というのは、神様の救いの真実を見続けること」と、いいました。パウロが言うことは、キリストの十字架が、いっさいの負い目を払いきって、罪なきものとしてくださり、神様のものとされた以上、もうわたしたちは神様のものなのだから、信仰の在り方を、自分であろうと、他人であろうと、人に頼ることは、もうやめようではないか。ということなのです。そこへきて「人の奴隷になってはいけません」という23節の御言葉にも結びついていきます。 

したがって、これは、奴隷制の賛成とか否定とか、限定的な勧告ではなく、人の目を気にしながら、信仰の在り方を定めていく態度への、忠告、と受け取ってよいかと思われる

キリストの信仰をもつと、わたしたちが意識をせずにはいられないことは、キリストの証しをしていくということである。そのために、ほかの人への「つまずき」にならないようにと気を配ることは、もちろん大切なことでしょう。そいったところで、「あの人は、クリスチャンのくせに、どうなのかしら」という、後ろ指をさされることを気にするあまり、信仰者としての生き方が窮屈になってしまっては、それは、キリストの十字架に買い取られたのか、それとも、ほかの人の目を気にする信仰になってしまったのか、わからなくなってしまう。信仰をもってから、「わたしは教会に行っています。イエス様を信じています。」、これをおおやけに言うことを意識しすぎて、言いたいことが言えなかったり、行動を控えたりするということがあるかもしれません。わたしはよくありました。キリストのものとされたことを喜びより、人の目を気にして、態度をあらためるような、人の奴隷のような在り方だったかもしれないと、いまは思ってしまいます

キリストは、どのようなわたしたちを愛して、十字架に架かってくださったのでしょうか。それは、罪を悔いて、赦しを、キリストの十字架に求めたときではなかったでしょうか。イエス様によって赦される喜びによって、身も心も自由に解放されたときではなかったでしょうか。ここで解き明かされることは、キリストの贖いの十字架を「召された処」、信仰の出発点として、じっと見続け、とどまりたいということです。ここにおられるのは、もうベテランの信仰者ばかりです。これまでの歩みのなかでも、きっと、「わたしはキリストのもの」という在り方に立ち帰るとき、人になんと言われようが、信仰は平安を取り戻したのではないでしょうか。日常の証しをたてる歩みのなかで、わたしたちは、どうしても足らざる部分、失敗、後悔がつきません。しかし、そのようなときにこそ、それも承知で、十字架に架かってくださったイエス・キリストの憐れみに、いつも立ち戻りたいと思います。召された処は、わたしたちにとっては、イエス・キリストが十字架に架かられた、罪が極まったところ。しかし、そここそ、もっとも深くイエス・キリストと結びついているところ。十字架のイエス・キリストに買い取られたわたしたちですから、神様は二度と、わたしたちを手放すことはありません。恐れることはありません。この平安を確かめつつ、主が示してくださるところから、キリストの自由な奴隷として、証しをまた続けていきましょう父、子、聖霊の御名によって。アーメン。

祈りをいたします。わたしたちをまるごと、いいところもわるいところも、そっくり買い取ってくださったキリストの十字架をほめたたえます。主よ、憐れみに感謝します。わたしどもを罪から自由にしてくださり、あなたの奴隷にしてくださいました。人の奴隷になってしまえば、ただただ窮屈で、自由がないところを、あなたの十字架を仰ぐたびに、ああ、お仕えするひとは、ただこの人だけであるという、天にも届く、自由を与えてくださって感謝します。わたしたちがこの恵みにささげられるものなどまったくないのです。ただ、与えられる十字架の恵みを、召されたところとして、とどまり続けさせてください。あなたを主と崇める、このなんたる恵み。ありがとうございます。十字架の救い主、イエス・キリストの御名によって、祈ります。

1月14日説教のポイント(郡上八幡伝道所)

「  我が身、どこに行こうとも  」

一年のはじめ、楽しみの一つは、年賀状のやりとりです。信仰をともにする方々にはクリスマスカードを贈り、まだ信仰をお持ちでない方には、年賀状を出しております。古い友人、大学の同期、会社に勤めていたころの取引先の営業マン、上司。恩師。わたしの近況を感謝とともにお知らせし、また近況を教えていただける。嬉しいひと時、です。今年は、転居のお知らせもかねました。岐阜に来ていることに驚いたと、一筆添えてくださったかたもいます。あらためて、わたしじしんもそう思います。

この大きな変化の中で、神様の強い導きをあらためて感じました。務めるべき場所に遣わされ、新しい出会いも与えられました。ともにキリストにあって生きる、主の民に出会えました。岐阜において、ここ郡上において。皆さまも、これまでの歩みがあって、それぞれのところからの召しがあって、いまここにおられることと思います。神様の驚くべき御心を、感謝とともに感じます。

神様の御引き合わせで、ともに生きていく方々との出会いが与えられるとき。「どこに行こうとも、主よ、あなたは、そこにもいます」と、神様がどこにでもおられることを知らされたものです。

今日、与えられた詩編第139篇も、神様がどういうお方であるか、人が知るということについて歌われています。詩の前半をみていきますが、御覧のように、神は人のすべてを知り給う、という真実が歌われています。

詩人は、言葉を尽くして、まず、神様が人を「知る」とはどういことか、歌い始めます。すこし、言葉の説明になります。今日は、こちらの説教のポイントを週報に印刷してありますので、どうぞ、そこも御覧になりながら、お聞きください。

まず、1節。「わたしを究め」:ハーカル、内側に入り込んでしっかり観察する。同じく「知っておられる」:ヤダー、聖書にはたくさん用いられる言葉です。肉体が交わるほどにお互いを良く知る。2節「知り」は同じ、ヤダーです。後半の、「悟っておられる」:ビーン、判別する、教える。3節「見分ける」:ツァーラー、穀物をふるいにわけることから「詳しく判別する」。同じく「通じておられる」:サーカン、支配者として世話をすることから、その人の、善悪、好き嫌いまで知っている、と言う意味になります。

言語は、思想や文化背景を現すと、言われます。たとえば、日本には、雨に関する言葉がおおいように。ヘブライ語では、神様が人を知る、ということに関しては、これほど言葉が豊富。ということは、それほど、神様が、人を知り尽くしているということを、大切にしてきたという証しになります。ここでは、それほどに、神様はあらゆる手立てをもって、わたしたち人間を知っておられるということ、ここで覚えていただければと思います。

このように神様が、わたしたちを良く知っている、お方である、ということが、わかったところで。では、その関係性は一方通行なのでしょうか。つまり、神様だけが、わたしたちを知り、わたしたちは神様を知ることはできないのか、というと、そうではありません。詩人がこうして言葉を尽くして、神様がどういうお方であるか、歌う。すると、この詩人も、神様を「このようなお方である」と知ったということになります。ひいては、それをいま、読む、わたしたちも、神様は「このようなお方である」と知らされることになります。こうして、聖書によって知らされるとき、わたしたちもまた、読むほどに、神様のことを知ることへと導かれていきます。

聖書によりわたしたちは、こうして信仰者が語る言葉を読むほどに、「ああ、神様は、そういうお方なのか」と知らされていくことになります。神を知るということは、自分自身が知られているということを知るということ。そうすると、わたしたちの人生の歩みを、聖書に照らすことで、神様を知ると同時に、自分自身のことも知らされていくことになります。

これは、わたしたち人間どうしの関係にも言えることではないでしょうか。よく、「心が通い合う」という言い方を耳にします。ほんとに、相手を知るということは、その人が、どういう人格で、なにを考え、どういう判断をして、どのように感じるのか。それと同じように、わたしたちは、神様を人格的に知ることで、神様のことを深く知るものへと新しくされていきます。

こうして詩人は7節において、神様がわたしたちを知り、わたしたちも神様をしっていくということについて、「あなたの霊」という言葉を用いて語り始めます。どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。

6節までは、神様がわたしたちを良く知っておられるということを語ったうえで、7節以降、詩人の視線は、いっきに広がりを見せます。神様の偏在、という言い方がありますが、どこにいっても、神様はおられるという真実。むしろ、思いもよらず、神様と離れてしまっているのではないか、という状況にあったとしても、やはり神はそこにおられます、と、詩人は伝えようとしています。

 9節では「曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも」、美しい表現です。この詩編が、たとえばエルサレムで歌われたとすれば、その海の側は西のほう。地中海までは、そう遠くはないところです。西側に、地中海が広がり、世界の広さを感じさせます。そうして、朝日は、振り返ったシオンの丘のうしろ、東の空、後ろから広がって来る。そうすると、まるで朝日の美しさを背中にしょって、曙の翼を広げたようになる。その朝日は、中天を通って、西の空へ飛んでいくのですから、想像の翼を広げた詩人は、あの海のかなたへいっても、神様はいるのだろうと、感じたのかもしれません。

しかし詩人は、こうした場所的な普遍性ということにとどまらず、人生の歩みの中で、「海のかなた」のようなところ、すなわち、まったく予想もできなかった事態に陥ったときであっても、そこに主が共にいてくださることの真実を語ろうとしている、と言うこともできます。今日は、前半を与えられましたが、詩編第139篇、後半を読み解いていけば、この詩人が、場所的な見知らぬ土地というよりも、予想もできなかった、苦しい状況に立たされていることを知らされます。すると、この詩人は、自然の情景を用いながら、歌いあげつつも、美しさだけを歌のなかに込めようというわけではない。いま、置かれている、現実のまえに、「曙の翼を駆って、海のかなたに飛んでいきたい」ほどの思いであると、詩人の思いを聞き取ることもできるでしょう。

表題によれば、これはダビデの詩ということです。ダビデも、人生のなかで試練を経験し、それでも信仰とともに歩んだ人でした。さらには、この詩編を口ずさんだ信仰者たち。バビロンの捕囚で捕らわれの身になった主の民。彼らはこの詩を歌って、遠い異国に連れてこられたけれども、主はここにもいます、と信じて礼拝をささげた。キリストの教会も、伝道をしながら、遠い旅路を歩む中で、または、予想もできない迫害の苦しみのなかでこそ、むしろ、主がともにいてくださることを確信しながら、この詩を歌い上げたのではないでしょうか。

聖書は、順風満帆のときよりも、試練のときにこそ、主が共に歩んでくださることを、いっそう深く示そうとしているものだと思います。生きる場所を追われるような試練に見舞われ、あるいは、思いもよらなかった、事態に陥ったとき、今ある現実から、曙の翼があれば、海のかなたに飛んでいってしまいたいほどの試練のなかで。それでも、主よ、あなたは一緒におられますか?と問いたくなるようなとき。

しかし、そのようなときに、思いもよらぬところにおられる主に、信仰者たちは出会ってきました。モーセは、エジプトから逃げ出し、40年も羊飼いに身をやつしたところで、ホレブの山の道をそれたところで、主に出会いました。士師ギデオンは、ミディアン人に虐げられて、酒ぶねのなかで隠れながら生活の資を得ていたときに、主に出会いました。預言者エリヤは、迫害するイザベル女王から逃げ惑う洞窟の中で、主に出会いました。十字架のうえで悔い改めた強盗は、「このお方は、悪いことをした人ではない」と告白したときに、主に出会いました。ペトロは、イエスなど知らないと言って、逃げ出したところで、復活の主に出会いました。パウロは、キリスト者をさんざん迫害し、盲目となったとき、主に出会いました。

主にすっかり人生を知られ、人生を捕らえられた人は、まさかと思うところで、そこにもおられる主に出会う。主は、ここであなたに会う、ということまで、ご存じなのです。まさか、人生の歩みのなかで、誰がわたしのことを知っているのだろうかと孤独を感じ、十字架を担いで、ゴルゴタの丘を登ったところに、わたしたちの十字架を背負ってくださる、主なる神がおられるとは。だからこそ、あらゆる御力をもって、人生のすべてを知っておられる主が、思いもよらぬところにおられる。と、わたしたちは詩人の歌声とともに、主を賛美することができるのでしょう。人生の折々を思い起こしつつ、インマヌエル、ともにいてくださる主を讃えることが出来るのです。

こうして、すべてを知っていてくださるお方が、主なる神様であることを知った、わたしたち。この詩編は、三つにおられ、一つである神が、お姿を表しているところだと確信を深めることころであると言うことができます。7節、わたしたちに霊の息吹を吹き込み給うお方は、わたしたちの霊とともに、居てくださる、聖なる霊であるお方。8節、そのお方は、天の右の座におりながら、ひとたび、十字架に架かって、神でありながら死の悲惨を経験してくださった。9節、10節、そのお方は、どのようのときも、どのようの場所にあっても、創造されたこの世界をすっぽりとつつみ、創造されたわたしたちの人生を御手の内に捉えてくださるお方。三位一体の完全なる、神がいっしょに歩んでくださるわたしたちの人生です。

今日も、また主なる神様は、聖書を通して、ご自身を示してくださいました。「これこそ、わたしが歩むべき道でした。」と、深い感謝とともに振り返ることになる日まで、「わが身どこにいこうとも、一緒にいてくださる」主なる神様です。父、子、聖霊の御名によって、アーメン。祈りをいたします。

主よ、あなたは、なにもかもご存じです。わたしたちがなにを考え、なにを判断し、どのように感じて、なにを選ぶか、ご存じです。ですから、もっともふさわしいところで、わたしたちを待っていてくださり、最後までともに歩むのは、だれでもない、わたしであると、聖書を通して語ってくださいます。もっとも辛いときにともにいてくださった主よ、あなたが、わたしどもには行けない、ところまで連れていってくださいます。曙の翼を駆って、天のたかみにまで、あなたたとともに上ることになるその日まで、なお遺された地上の歩みも、置かれた現実の日々のなかで、ともに歩んでくださいますように。すべてを知り給う、イエス・キリストの御名によって祈ります。

1月7日説教のポイント(郡上八幡伝道所)

「  愛の証しが降ってきた!  」

今日は、2018年のはじめの礼拝です。日本的な言い方をすれば、主が名を置かれた、この祈りの家に、初詣です。「八幡で初詣をする」、という言い方をすれば、まるで日本古来の神様に初詣にいったかのようですが、この八幡山の中腹に立つ、わたしたちの祈りの家は、主なる神様を礼拝するところです。わたしたちが、この新しい年も礼拝をささげるお方は、とおき日にイスラエルの民にむかって、シナイ山のふもとで、ご自身を現された神です。

神様は、そのときこのように言われました。出エジプト記第3319「わたしはあなたの前にすべての善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」。わたしたちに賜物を与え、恵みを与え、憐れんでくださる主なる神。このお方が、わたしたちが礼拝をささげる唯一のお方です。創造主なる神、御子なる神、いまもおられる聖霊なる神。三つにおられ、一つである神様です。

 今日は、父、子、聖霊なる神の、三つのお姿のうち、聖霊なる神様のお姿にまなざしを向けながら、み言葉をたずねていきます。

救い主イエス・キリストが、洗礼者ヨハネによって、洗礼を授けられるみ言葉を、与えられました。このとき、ヨハネに任せられていた務めはなんだったでしょうか。4節のとおりです。「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」 

神様に、人が向き合うためには、罪の赦しと悔い改め、これが必要だとヨハネは語っていました。「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」。聖書は、ほかの箇所においても、そのとおりだとかたります。詩編第3419「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる」。

 さて、大切なことは、この悔い改めの歩みが、たえず続いていくことです。ひとたび、神様に正しく向き直ったとしても、日々の生活で、神様への向きがまたおかしな方向に向かってしまう。「罪」と訳されるギリシャ語「ハマルティア」のように、的外れな歩みに戻ってしまえば、また悔い改めが求められます。ヨハネが洗礼を授けていたころ、この洗礼は、一回限りのことではありませんでした。罪を自覚するたびに、悔い改め、そのしるしとして、洗礼が与えられる。いわば、水の洗礼は、罪の汚れを洗い落とす儀式とされていました。

 この、ヨルダン川の水で全身を洗い清めることが、今のわたしたちの洗礼に、受け継がれていきました。水の洗礼と、そのあと、わたしたちに与えられた聖霊による洗礼。水を用いる点では、見た目は、ほとんど変わりません。

しかし中身としては、聖霊による洗礼をイエス様が、まず誰よりも先にしてくださったことで、洗礼に、新しい意味が与えられたことになります。罪を犯すたびに、「繰り返し浄められる」のではなく、聖なる霊によって、まっすぐに神のもの、愛する子とされるということ。

 イエス・キリストが聖霊の洗礼を受けてくださったとき、天が裂け、鳩のような聖霊が降り、天から声が聞こえてきました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。これは、聖霊がイエス・キリストに降ったことで、天の声、すなわち父なる神は、まずイエスと言うお方を、「愛する子」と宣言されたことになります。人の姿をとって、へりくだってくださったイエス様。すべての人が、このイエス様のならうことで、すべての人にむけて愛する子とされる道が開かれました。わたしたちにもできることを、イエス様がまずしてくださったことは、神様の御心に適うことであったということです。イエス様は、この聖霊の洗礼を、御自分のためというよりも、これから洗礼を受けることになる、あとに続くわたしたちが「神様に愛する子」とされるために、してくださったと言えます。

 このように、神様がわたしたちを、聖霊をとおして「愛する子」と言われるほどに、愛を示してくださったことは、まことに恵みに満ちたことです。つぎに考えたいことは、神様が「愛する子」と言ってくださったほどの、「愛」とは、どういったものであるか、ということです。

 この愛は、天が裂けて、そこから聖霊が降りてきたことで、まずイエス・キリストに示されました。「天が裂けて」。主がおられる、いと高きところ、その完全なる天を、裂いてまで、御自分の霊を下ろさねばならなかった。そのような愛を、主は御示しになりました。

この「裂く」という言葉は、マルコによる福音書においては、ほかにもう一か所でしか、用いられていません。マルコはそのことで、福音書における二つの時を、大きなかかわりがあるものとして、伝えようとしています。もう一か所とは、どこか。それは、イエス・キリストが十字架にかかったのち、同じくマルコによる福音書、15:3738、「しかしイエスは大声を出して息を引き取られた。すると神殿の垂れ幕が上から下まで、真っ二つにさけた」。ユダヤの慣習では、たとえばこの裂くという行為。深い悲しみを現すとき、衣を裂くときにも、この言葉を用います。つまり、この天が裂かれるとは、やがてイエス・キリストが息を引き取られるときの、痛みをあらかじめ示すものだったということなのです。

主なる神は、イエス・キリストを「愛する子」として、地上にお遣わしになり、御心に適うものと宣言されました。「わたしの心に適う者」。主の御心が、まことに表されたのはどこだったでしょうか。それは、イエス・キリストがゲッセマネの祈りで「御心がなりますように」と祈られたように、わたしどもを愛しつつ、十字架におかかりになることでした。これが、神の愛、すなわち痛みをともなうほどの、憐れみの業だったのです。すなわち、神様にとっては、「わたしの愛する子」をひとたび失うこと。しかし、神様はそれをいとうことなく、天を裂き、聖霊を下し、イエス・キリストのあとにならうものに、神様はひとしく大切なものを失うほどの愛を示されたのです。

聖書が語る神の愛は、自分の大切なものを失ったとしても、隣人を満たそうとするものです。この神の愛の姿、天を裂いてでも、霊を降ろし、愛を示し、神の子を御心に適うものとしてお遣わしになる。このお方は、御自分の大切なものを失ってでも、愛するものを満たそうとするお方なのです。

日本においては、聖書が語る「神の愛」を、「愛」という日本語一言で言い表しています。しかし、聖書を読み深めるたびに、なんと「愛」という言葉が、いま独り歩きし、あるいは、聖書が示す神の愛を言い表すには、足りないところが多いのではないか、と思わざるをえません。むかしある日本人は、聖書の「愛」と訳される言葉を「御大切」とも訳したといいます。自分よりも、隣の人を大切にすること。言い得て妙だと思います。またあるひとは、憐れみを付け加えて、愛憐ともいいました。完全なる神が、欠けの多き人を満たす。これも、聖書がかたる神の愛をよく補っていると思います。

わたしたちは、わたしたちが大切にしているものを、失うほどに神を、または人を愛することが、できるのでしょうか。わたしたちだけでは、それはとうていかなわないことでしょう。だからこそ、主イエス・キリストがなさった聖霊による洗礼にしたがって、イエス様にならうことで、すでにイエス・キリストが果たしてくださった神への愛に与るよりほかありません。しかし、それでよいと神様はいってくださる。イエス様に宣言されたように、わたしたちにも、「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」と、主に倣うすべての人に、神は宣言されます。

わたしたちは、「御心に適う者」となるために、あまりにも高い理想を描いて、それが出来ない自分を、責め、主なる神にお詫びすることもあります。しかし、まずわきまえたいことは、神と人をわたしたちは完全に愛することは、本来、できないということ。できないことを見つめすぎると、謙遜を通り越して、無力にさいなまれ、悲しみだけが残ってしまいます。信仰者としての在り方は、人それぞれ。誰とも比べることはできません。それでもわたしたち一人ひとりを、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と、天から宣言してくださる言葉に信頼し、霊とともに、常に新しくされて歩むことを、神様はなにより喜ばれるのではないでしょうか。聖霊の洗礼によって、わたしたちの神と人への愛は、すでに御子イエス・キリストの十字架によって、十全に満たされているのです。

 

ひとたび天を裂いて、降ってきた、神の愛の証しである聖霊が、わたしたちを主イエス・キリストにならう歩みに導いてくださいます。鳩のように柔和で、謙遜を知り、神と人を愛するものとして。新しい年も、すでに頂いた愛の証しである神の霊とともに、ますます神様に愛される神の子として、平安のうちに歩まれる一年でありますように。父、子、聖霊の御名によって、アーメン。祈りをいたします。

 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」、裂けた天から、あなたの声が響き渡りました。愛の神よ、天を裂くほどに、下したもう聖霊を、イエス・キリストだけではなく、そのあとに続くすべての信仰者に与えてくださり感謝いたします。大切な御独り子を、十字架におつけになることを、あなたはとどめおかず、大切なものを失うほどに果たすものが真の愛であると、示してくださいました。とても、わたしどもにはできないことを、父なる神と、御子なるイエス・キリストが、聖霊の交わりのうちに果たしてくださり、感謝いたします。ゆえに、聖なる霊に与るわたしどもも、イエス・キリストのゆえに、深い愛に倣う者とされていきます。いまだ、あなたの深い愛には、とても値せぬわたしどもではありますが、どうぞ、与えられた聖なる霊をよりどころとして、御心に適う者として、歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって、祈り願います。アーメン。

12月31日説教のポイント(郡上八幡伝道所)

新しい名は光と輝く

聖書 イザヤ書第6110-第62章3

       伝道師 三輪恵愛


 まだクリスマスの喜びの余韻が残るなかで、礼拝をささげております。先週は、飼い葉桶にきてくださった救い主のお生まれをご一緒にお祝いいたしました。静かな、清らかな、そして小さなところにこそ、幼子の姿で来てくださるイエス様を、喜んでお迎えしたものです。

 世間は25日を過ぎれば、あっと言う間にクリスマスを片付けてしまい、今度は、しめ縄、お餅、門松、新年を迎える準備に入ります。まあ、クリスマスに引き続いて新年を祝うのは、ほかの国でもあることのようですが、ただの風物詩になっている様子は寂しいものです。教会は、そのてん、クリスマスをしばらく祝います。クリスマスの8日後、つまり元旦には、幼子が、「主はわたしの救い」という意味の、イエスという名前を付けられる。そして、クリスマスから数えて、12日目、16日。公現日といいますが、この祝祭までがクリスマスとされます。しばらく、救い主がきてくださった喜びを静かに思い深める、そのような時として、過ごせる期間だと思います。

 今日のみ言葉として与えられた箇所は、イザヤ書の終わりの方。救い主の到来を預言するところです。10節以下は、救い主が来られたあとの喜びを、口を極めて、讃えます。「わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって、喜び躍る」。なめらかな日本語に訳されているところですが、ここには、ヘブライ語独特の表現が込められています。「わたしは主のなかにいて、喜びを喜ぶ」。「喜び」という言葉を重ねてもちい、喜びを伝えようとしています。それほどに、救い主の到来は、嬉しいことであると、預言者は、将来に約束された救い主の到来の喜ばしさを語っていました。

このようにして読むと、この10節において、「わたし」と語る人は、救い主をお迎えした人であるかのように受け取れます。ところが、このイザヤ書第61章を深く読みつつ、神様の御心をたずねようとする人たちは、いったい、ここでの「わたし」は誰なのか。ながく議論されてきました。

ある人は、ここでの「わたし」は、「救い主その人だ」と語ります。なぜならば、これは「油注がれた人」が語っているから、といいます。そのままお開きの、第61章の1節を御覧ください。はい、たしかに「主は油を注ぎ」とあります。「油を注がれた人」、マーシアッハー、これがメシアとなり、ギリシャ語では、クリオ―から、クリストス「油注がれた人」という言葉に訳されました。キリストのことです。たしかにそのようにも読める。

しかしある人は、10節の「主は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる」に注目します。「『救い主、本人が救いの衣を着る』という言葉は、聖書の他の箇所のどこにもない。だから、「わたし」は、やはり救い主をお迎えした人のことだろう」といいます。どちらもある程度、説得力があるものです。

旧約聖書だけを読んでいれば、なかなか答えは得られないところです。では、新約聖書を合わせて読めばどうか。すると、後の方の意見が、どうも正しいのではないかと思わされます。それは、「救いの衣をわたしに着せ」、というのは、たとえば使徒たちが、キリストを迎え入れた一人ひとりの信仰者が、キリストを着るようにして信仰の道を歩むと語るからです。パウロは、ローマ13:14、ガラ3:27で「キリストを着る」という言い方をもちいて、キリストをお迎えした後のひとの歩みを語ります。なるほど、この「わたし」は、やはり、キリストをお迎えしたあとの人が喜んでいる姿ではないだろうか。ひいては、わたしたち一人ひとりも、救いの衣を着たものとして、預言者とともに、「喜びを喜ぶ」ことができるのではないかと思います。

さて、イザヤ書は、ご存じのように、大きな書物で、前後にかけては何百年もまたいで、語られた預言が記されています。第61章は、終わりの方。救い主の到来に向けて、希望の預言が語られます。ところで、将来のことが預言されているとはいえ、そのときに実際に起きていたことを、まったく無関係ということでもありません。どうも、第61章が記されたとき、ペルシャの王が、捕らわれの民をエルサレムに帰らせたという出来事が起こったと言われます。そうして、戻ってきた民は、ペルシャの王を、「油注がれた人」といって、喜んだとも言われます。

エルサレムに戻ってきた喜び、けっして主なる神は、見捨て給わず、しかるべき人を遣わして、礼拝をささげるために招いてくださる。その喜びを語るのが、今度は、62章からの預言になります。ここでも「わたし」が出てきます。1節「シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず、エルサレムのために、わたしは決して黙さない」。この「わたし」は、61章と同様に、救い主をお迎えした人として読んだとして、さらに2節に出てくる「あなた」は、いったい、誰なのでしょうか。

ここでは、実際におきた出来事、すなわちエルサレムの神殿の再建ということも合わせて考えたとき、どうも、62章以降の「あなた」は再建されたエルサレム、とりわけ、神様を礼拝するための場所としての神殿を指していると考えたとき、全体の意味が通ってくるようです。

というのも、バビロンの捕囚は、神様への背きがつのって起こされた出来事、古いイスラエルの民を、神への立ち返りへと導くものでした。いったん、祭儀と律法に凝り固まった神殿は壊されますが、そのあとに、新しい契約によって、建てられる、まことの礼拝をささげるところが与えられる。新約の時代では、それが、キリストの体なる教会とされました。したがって、旧約聖書が、キリストの教会の正典となり、礼拝で読まれるようになって以後、再建されたエルサレムは、礼拝をささげるところ、教会のモチーフとなっていきました。

そのように読むと、この第61章と、第62章。章をまたいで記される預言は、キリストをお迎えして、大いに喜ぶ民が、新しい群れ、教会とされる姿が語られていると言えます。とくに、クリスマスにイエス・キリストをお迎えし、あらためて、御言葉にしたがって礼拝をささげる群れとして歩み始めたわたしたちにとり、主なる神が与えてくださった、祝福のみ言葉であると、いうことができるでしょう。

救い主をお迎えし、礼拝をささげる新しい民とされた「あなた」にむかって、2節では、こう語られます。「諸国の民はあなたの正しさを見、王はすべて、あなたの栄光を仰ぐ。主の口が定めた新しい名をもって、あなたは呼ばれるであろう」。主なる神は、この新しい群れに、新しい名を与えてくださると言います。さあ、どんな名前が相応しいのでしょうか。

さきほどは、このクリスマスの時期は、6日の公現日まで続くといいました。生まれたての赤ちゃんにも、新しい名前がつけられることです。明日は、イエス様に御名前が付けられた日。新しい名をつけられた日になります。イエシュア、「主はわたしの救い」。罪より解放され、新しくされた民がいただくにふさわしい御名前は、やはりこの、「主はわたしたちの救い」と言われる、イエス・キリストの御名前ではないでしょうか。キリストは、教会の体であります。クリスマス、それぞれに、主をお迎えした人が一つとなるところ、ここ、キリストの教会が、主の口が定めた、新しい名、と言えるでしょう。そうすると、3「あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり、あなたは、神の御手の中で王冠となる」どれほど、主が教会を大切に愛しておられるか、伝わってくる慰めのみ言葉ではないでしょうか。

こちらに遣わされる前から、岐阜教会百年史を手元におき、時間があれば目を通すようにしてきました。ここ、郡上八幡での伝道は、いつまでさかのぼるのか。「主が新しい名をもって呼び始めたのはいつか」。百年史によれば、まず書いてあるのは、19471220日、浅倉重雄牧師が、小学校講堂でのクリスマス礼拝であったと言います。翌年は賀川豊彦先生を招いて講演会を開き、そこで、決心者カードを書いた方々が、のちに郡上八幡伝道所創設委員をなられたと、主の御業が記されていました。いまよりちょうど、70年前のクリスマス。イエス・キリストの御名前をお迎えした人たちが、一つの新しい民とされ、主の愛するこの教会がたてられました。

伝道の助けになればと、せんだって、看板を立てたとき、名称が議論されました。「伝道所」なのか「教会」なのか。すでにある看板に合わせて「教会」としました。「教会」なのか、「伝道所」なのか、これらは、日本キリスト教会が定めた、ささいなきまりごと。ここは、エクレシア、教会です。イエス・キリストをお迎えした人を神が招いて、かたち作る群れです。人間業ではありません。浅倉先生も、賀川先生も、決心カードを書いた先輩方も、主によって遣わされ、主によってえらばれ、主によって喜び、主によって、エクレシアなるイエス・キリストにお仕えしたと、確信します。つねに、ここにはイエス・キリスト、「主はわが救い」という方が「キリスト」、油注がれた方である、との名前が置かれている。それゆえ70年、多くの人がここに仕えてこられたのでしょう。

 イエシュアの名のもとに、この輝ける新しい名をとって、わたしたちも、郡上八幡にある、イエス・キリストの名による教会です。かの日から、70年しかまだ、たっていません。伝道ははじまったばかり、イエス・キリスト、主の紀元2018年目を、イエス・キリストの尊い御名前とともに、光り輝くものとして、希望にあふれ新年を迎えたいと願います。皆さまにとって、主のご栄光に照らされる、新しい年となりますように。父、子、聖霊の御名前によって、アーメン。

祈りをいたします。

わたしたちに恵みの晴れ着を着せてくださる主なる神よ、イェシュア、主はわたしたちの救いとのとこしえの御名前ゆえに、あなたを喜び、ほめ讃えます。なんたるこの恵み、なにもないところに恵みと栄誉を芽生えさせる主の全能が、これからも御業を起こされますように。新しい名をもって、たて上げられたこの教会が、新しいイスラエルとして、あなたの正しさ、栄光を、光り輝く松明のように、周りを照らし続けてきました。主の紀元2017年目の一年が過ぎようとしています。どれほどの業をあなたは為し続けられたのか、時にかなって美しく、ふさわしい恵みの業をたえず、起こしてこられました。わたしたちは感謝とともに、一年を贈り、新しい年を迎えようとしています。どうぞ、新しい年も、あなたの輝きのなかで、御手に守られつつ、福音を語り継ぐものとして、お用いください。わたしたちは決して口を閉ざさず、決して黙しません。ただ、あなたの御名前を讃え、御言葉を語り、祈り、交わりを篤くしてまいります。いっそう祝福を賜りますように。主はわたしたちの救い、イエス・キリストの御名前によって祈ります。

12月24日説教のポイント(郡上八幡伝道所)

「メシアは飼い葉おけに眠る」

聖書 ルカによる福音書第2章15-20

       伝道師 三輪恵愛

 クリスマスおめでとうございます。こうして「おめでとうございます」と一言でお祝いを伝えてしまいますが、クリスマスが恵みと喜びにあふれるめでたい日であることは、とても一言では言い尽くせません。クリスマスの意味は、救い主がお生まれになったときのことを思い巡らすほどに、豊かになっていきます。19節は、このときのマリアの様子を伝えます。「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」。生まれて来た我が子が、救い主メシアであって、さっそく羊飼いたちが拝みにきました。いったいこれはどういう出来事なのだろうか。わたしにとってどういう意味があるのだろうか。ただ、そのときは起きた出来事を、受け止めることで精いっぱいだったでしょう。しかし、長い時間をかけて意味を見出していくほどに、深い理解に導かれていきます。キリストのお生まれの出来事は、わたしたちにとっても、計り知れないほどの深さを持っています。だから、毎年、クリスマスを心から喜ぶたびに、主なる神様の御業を、新しい思いで、味わうことができると思います。

 与えられたみ言葉のなかでも、今日、このめでたい夜にご一緒に深めていきたい喜びは、メシアが、飼い葉桶に寝かせられている、ということです。これも、落ち着いて意味を考えたい、深い出来事だと思います。世の中を救うために来られた方が、赤子のときは飼い葉桶に寝かせられていたということ。すこし考えれば、それは、とても不思議なことです。

試みに、納得のいく説明をしようとすれば、できるかもしれません。若い夫婦は宿屋には、泊まる場所がなかった。しかたなく行ったところは、洞窟をつかった家畜小屋。このころのパレスチナ地方の家畜小屋は、いまのような立派なものではなく、自然の洞窟を利用した簡素なものだったと言います。そこで、赤子を寝かせるには、なにかが必要。そこで、彼らは仕方なしに、飼い葉桶を使った。この飼い葉桶も、聖誕劇などで見かけるような、綺麗なものとは大違いだったでしょう。わたしはしばらく家畜の世話をしたことがありますが、本当にきたないもので、あまり丁寧には洗った記憶はありません。生まれたばかりの赤ちゃんを寝かせるには、まったく不適当です。ルカが記すクリスマスの出来事は、このように、若い夫婦が野宿同然で洞穴のような家畜小屋で夜を過ごさなければならず、しかもそこで産気づいて出産し、赤ちゃんは家畜の汚い飼い葉桶に寝かせなければならなかった。人間の側からすれば、「しかたがなく」がたくさん重なっています。

ところが、天使たちが羊飼いに告げたことは、まさにこの情景でした。1112「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。神様によれば、これらのことの次第は、まことに御心に適うことだったということです。主なる神様は、救い主が赤子の姿で、汚れた飼い葉桶に寝かせられることを、すでに定めておられました。

 さてご承知のように、ルカが記す救い主の誕生において、天使が重要な役割を果たしています。羊飼いたちにこの神のお定めを告げたのは天使でした。羊飼いたちは、天使の言葉を素直に受け止め、幼子をさがしにでかけています。

この場面は、クリスマスの聖誕劇などでは、クライマックスの一つ。金曜日は、日曜学校のクリスマスで、子供たちが一生懸命練習して、見せてくれました。そのなかにも、天使が登場しました。わたしたちのイメージでは、天使は擬人化され、羽がはえ、神様の家来のようなふるまいをします。

 これはこれで、後世の教会が持ったイメージです。たしかに天の軍勢というほどだから、人のようななにかが天に満ちたと考えられたのでしょう。しかし造形に心を傾けすぎると、天使と訳されているもともとの言葉に秘められた、本質が隠れるかもしれません。英語では天使をエンジェルといいますが、これは、ギリシャ語のアンゲロスから来たものです。そして、このアンゲロスは、もともと、メッセージを伝える伝令という意味でした。アンゲロー。言葉を伝えるもの。このアンゲローに、「良い」という意味の接頭辞がつくと、「ユーアンゲロー」、福音になります。ここから、この天使という存在において、大切なことは、神のメッセージを伝えるもの、すなわち、神のみ言葉そのものであったということができるでしょう。

 なるほど、そのように考えると、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と神を賛美していう天使の群れは、神様からわたしたちに語られようとしているメッセージが天に満ち満ちている様子を現しているとも考えられます。

それにしても、羊飼いたちは、いくら天からのメッセージであったとしても、かくも素直に、聞き取って、本当にそうであるかどうか、確かめようとするさまは、純真無垢に過ぎるようにも思えます。わたしたちもそうありたいが、なかなか、思うに任せることが難しく思えます。

羊飼いたちが、このように期待をもって、急いで見に行ったのは、なぜでしょうか。羊飼いがそれだけ、純真だったから?天使が「ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」と告げたから?ベツレヘムに住む羊飼いであれば、かのダビデ王も、ベツレヘムの羊飼いであったことは知っていたと思われます。もっとも貧しい生業とされた羊飼いにとり、ベツレヘムの羊飼いだったダビデ王の血筋にあたる救い主が、ダビデの町にお生まれになることは、長く期待していたことでもあったでしょう。

しかし、こうしていろいろ、もっともらしい理由を考えて、なぜ羊飼いたちに?と考えても、これは、人間の側からの理由付けでは本当の御心を知ることは難しいことかもしれません。しかし、これも、神様の側から見れば、わかることがあります。それは、神様は、メシアのお生まれをまっさきに知らせる人たちとして、この貧しい、すみに追いやられている人たちに、まずまっさきに知らせたということです。神様の救いのまなざしは、まず貧しくも、御言葉を聞いて期待しながら、出来事を確かめる人に、及ぶということです。

このように、わたしたちのメシア、救い主はどこに来られるのか、それは、まことに弱く、頼りなく、だからこそ天に満ち満ちているみ言葉に信頼をおき、聞き取る人のもとにこそ来られます。

しかしながら、メシアをお迎えするに、わたしたちが用意できる心の場所に、ふさわしいところは見つかりますでしょうか。わたしたちは、弱さゆえに、心の貧しさゆえに、世の権力に生活を左右され、わたしたちが優先してしまいたいことがらが心のなかに満ち溢れ、この若い夫婦を洞窟の家畜小屋においやったように、「仕方なしに、仕方なしに」の繰り返しで、いつしか、心のなかには、飼い葉桶ほどの余裕しか用意ができないことに気づきます。本当に、ここにしかメシアをお迎えできない。そのように気づいたとき、とてもきれいとは言えない、わたしたちの飼い葉桶のなかに、なんと、布にくるまっている乳飲み子は、寝かせられているのです。もっともお迎えするには相応しくないようなところに、イエス・キリストは乳飲み子の姿で、わたしたちの弱さ、貧しさを慰めるために、同じ弱さを持つお姿で、ただ、居てくださる。

これこそ、民全体に与えられる大きな喜びです。だれしも、飼い葉桶しか用意できないにもかかわらず、そこにこそ、救い主はお生まれになってくださる。そうして、まことの人としてのお姿を、御言葉の通りに、わたしたちに示してくださるのです。

羊飼いたちは、確かに、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰っていきました。わたしたちの歩みも、このようなものではないでしょうか。ひとたび飼い葉桶に救い主をお迎えしてから、天にたくさん蓄えられている、神のみ言葉にふれるたびに、そのことを心に納めて思いめぐらし、時が来れば、そのとおりであったことを知り、神を礼拝し、賛美するものへと新しくされてきました。

今日、2017年のクリスマス。一年を振り返り、多くの天からのメッセージが、さまざまな神の言葉を伝えてくださいました。見聞きしたとおりであったことを知るたびに、わたしたちは新しくされ、確かにそのとおりだったと喜びにあふれます。これこそ、羊飼いのような、貧しいけれども、だからこそ大きな喜びをもたされる歩みとなります。飼い葉おけのなかに眠るメシアを礼拝しつつ、この喜びを、救い主がお生まれになった夜に、お祝いすることが出来ました。天のみ使いが神を賛美しております。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」、父、子、聖霊の御名によって。アーメン。

祈りをいたします。世の大きな権力が、わたしたちの生活を左右するような世にあって、あなたの大きな御業は、休む場所もない、若い夫婦のなかに生まれ、野宿をして羊を飼っている、羊飼いのもとに、まっすぐ知らされました。わたしたちも、天に満ちている、神のみ言葉に耳をすませるものとして、飼い葉おけに眠る御子こそ、わたしたちに与えられた大きなしるしであることを、今夜も新らしい思いでお祝いしたいと思います。飼い葉おけのような場所しか用意できない貧しさのなかで、それを御存じであられる主が、むしろそこにいてくださることが、わたしたちの希望であり、慰めとなります。わたしたちの救い主である主よ。すでに成し遂げてくださったこの大きな御業を、繰り返しお祝いしながら、さらに御子がお生まれになったことの喜びをますます深めていくものへと導いてください。そして、これからも、わたしたちが、天のみ言葉のとおりに見聞きしたことを、ほかの人へも、喜びつつ伝えるものとして、出かけていくことができますように。飼い葉おけに眠りたもう救い主イエス・キリストの御名前によって、祈り、願います。アーメン。

12月17日説教のポイント(郡上八幡伝道所)

すべての人が信じるように

聖書 ヨハネによる福音書第119-34

       伝道師 三輪恵愛

 アドヴェントも第三週となりました。来週のクリスマス礼拝を控えて、イエス様のご降誕を待ち望む気持ちも高まってきたように思えます。こちらでは、今年は24日の夕刻に礼拝をささげることになりました。クリスマスイブの礼拝と、クリスマスの礼拝を、まるで一緒に喜ぶ礼拝になったかのようです。楽しみにしております。

 クリスマスにわたしたちが大きな期待を寄せることは、イエス・キリストが世に遣わされたことが、すべての人の救いのためであって、願わくば、すべての人がそのことを信じてほしいということです。わたしたちの礼拝においては、欠かさず、この郡上の土地の多くの人が、主イエス・キリストを信じるようになっていただきたいとの祈りがささげられてきました。

 今日のみ言葉の最後のところには、洗礼者ヨハネは、このようにイエス・キリストというお方を証しします。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。「世の罪を取り除く」との言葉に、救い主の全世界性が込められています。だれか特別な人や、救いにふさわしい人ではなく、「世の罪」、すべての人が信じて救われるために、遣わされた方であると、いうことです。だれか特定の人、わたしだけでもなく、皆様だけでもない、さらに世の中のすべての人が信じ、救われるように。救い主は、そのために来られた、神の小羊です。

 さて、キリストの証しが洗礼者ヨハネによって、語られるところが、このヨハネによる福音書のはじまりのところです。わたくしが月報に毎月寄せている記事のなかで、前回は、なぜ福音書が一つでも、五つ以上でもなく、四つなのか、という点についてご紹介いたしました。端的に言えば、四つの福音書によってイエス・キリストを描くことが、もっとも適当であったということです。異なる書き方をされるなかで、読み比べていく営みのなかに、イエス・キリストの証しが立体的に立ち上がってくると言えると思います。

 マタイとルカのクリスマスの記事は、印象的でもあり、実際にイエス様がお生まれになったときに何が起こったかを書き記しています。ですから、イメージを再現することができる。ページェントのもとにしやすいと言えます。一方で、マルコとヨハネは、イエス様をあらかじめ示していた人物、洗礼者ヨハネの証しから書き始めます。クリスマスの様子を、見た目で伝えるという点においては、それが目的にはなっていません。しかし、洗礼者ヨハネの証言を通して、救い主の到来の本質的な意味を伝えています。その点においては、十分に、救い主の到来を記す、クリスマスに相応しい福音ということができるでしょう。

 イエス様が世に現れたとき、洗礼者ヨハネの救い主に関わる証言は、当時の指導者に大きな衝撃を与えました。今日のみ言葉でいえば、19~22節までのところです。もう一度、読んでおきます。さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問をさせたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネが何者か、知りたがっているファリサイ派の人たちのいらだちが伝わってくるかのような、やりとりです。

 なぜ、このファリサイ派の人たちは、これほどまでに、洗礼者ヨハネが何者かを知りたがっていたのか。一つ目の質問に対するヨハネの答えが、彼らが知りたがっている重要な事を物語っています。ヨハネは、適格に、彼らがもっとも知りたがっていることについて、応えていました。「わたしはメシアではない」。

 ファリサイ派の人たちの最大の関心事は、ヨハネが救い主かどうか、という点でした。旧約聖書を研究したファリサイ派の人たちであれば、預言の書に記されている救い主はいつ来るのか、そのときに世は裁かれるのか、ということが最大の関心事になったことはうなずけることです。彼らがヨハネから聞き出そうと食い下がる姿を、好意的にとらえれば、誠実に聖書を読み、預言の成就を待ち望んでいたと言えます。しかしこれを、批判的にとらえれば、彼らは救い主の到来と、世の裁きを恐れていたとも言えます。それは、23節の預言者イザヤの言葉を引用したところ。それから25節の「なぜ、水の洗礼か」という点に現れています。

まず預言者イザヤの言葉。これは、高められているものが低められるという預言につながる。この預言の前後、イザヤ書第40章は、道をまっすぐに、平坦にせよ。という言葉があります。すなわち、宗教的指導者たちも、高められた地位に与っているならば、低められる。また、「水の洗礼」が示すものは、罪を告白し、悔い改めるにおいて、なんの障害もなく、なんの見返りも、ヨハネは求めていませんでした。これらは、神殿での悔い改めに強烈にこだわる、ファリサイ派の人たちの聖書解釈にまっこうから挑みこむものでした。

 ヨハネによる福音書第2章に入りますと、イエス様が、神殿の入り口で供え物が売り買いされていることに憤られ、宮浄めを行う様子が記されます。イエス様が来られた時代、神殿で行われていたことは、罪の赦しのための小羊が、高いお金で販売され、神殿で祭儀を行う、宗教指導者の地位が世俗的に高められていたことである。そのなかで、罪の赦しのなかに犠牲の優劣が定められていった。多くを持つ者は、高いお金で犠牲を払うことで、多くの罪が赦され、犠牲の動物を買い取る力がないものは、小さな罪すら赦されることはない。この時代、とても「すべての人が罪赦され、神を信じる」ようには、なっていなかったことが、このヨハネとファリサイの問答に隠されていた、彼らのあいだにある緊張でした。

 ヨハネがイエス・キリストの到来の前に、「道を整えた」と言われるのは、罪の赦しにおいては、水の洗礼と罪の悔い改めが求められる、と説いたことでした。そこには、人間の側に求められる、乗り越えなければならない課題や、条件は一切ありませんでした。自らを罪びとであることを認めること。このことが、もっとも主なる神様に心を向けさせる。すなわち「悔い改め」と訳されるメタノエオーというギリシャ語が伝える赦しに求められる本質。神様のほうに向きなおるということです。ヨハネが見返りを求めることなく、罪の告白と水の洗礼によって赦しの道を開いたという点においては、限りなく、ヨハネは救いを完成に近づけた、稀有な人物と言えるでしょう。

 さて、わたくしたちは今日、「世の罪を取り除く神の小羊」によって、すべての人がイエス・キリストを通して、神のほうに向き直り、信じてほしいと祈り願いつつ、礼拝をささげています。ファリサイ派と洗礼者ヨハネの緊張関係をいろいろと語りつつ、当時、神様のほうに心を向き直ることをさまたげられていた様子に触れてきました。

 神様へと、心を向き直らせることを妨げているもの、それはいまも世に満ちています。クリスマスの時期は、年の瀬。一年の来し方を振り返るときでもあります。どうでしたでしょうか。この一年。皆さまの身の回りで、どのようなことがおこったか。岐阜で、日本で、世界で。喜ばしいこと、神様に感謝すべきことがあった一方で、心を締め付けるような、悲しい出来事が後を絶たなかったことです。そうして、救いを求める魂が少なくないなかで、世の事柄で、救いを得させようとすることが、どれほど神様へ向き直る機会を失わせていることか。人の業、行いに見返りをもとめて救いを与えようとするものは、例外なく、まことの赦しから遠ざけます。

わたしたち人間の見返りを求めない、世の罪を取り除く神の小羊がいまも必要なのです。ヨハネが限りなく、完成まで近づけた救いの道を、最後に完成させたのは、神がもっとも喜ばれるささげもの、罪なき方の犠牲でした。神の小羊です。

このクリスマスの時期、わたしたちは、御子イエス・キリストの誕生にまなざしが向けられます。ヨセフとマリアが傍らにおり、馬舟のなかに布にくるまっている幼子イエス。かわいらしい赤ちゃんの姿を思い浮かべ、微笑みがこぼれるようなとき。しかし、まことの神にしてまことの人の一生の目的は、誕生のときに定めらていました。このお方が、地上において世の罪をつぶさに御覧になられ、罪に思い悩むすべての人の隣人となってくださり、神の小羊の犠牲となってくださったとき、ふたたび、彼は、布にくるまって、墓のなかに寝かせられました。わたしたちが来週、拝もうとしている幼子イエスは、神の小羊として屠られるために来られたお方です。このお方の歩みが、最後には十字架に通じることを含めて礼拝するとき、クリスマスの意義は一層深まり、ますます幼子のお生まれを拝む私たちの頭は、かたじけない感謝とともに低くなるのではないでしょうか。

 すべての人が、罪を認め、赦しをいただき、神を信じるために、神の小羊なるイエス・キリストは来られました。このお方は、なんの見返りも求めません。ただ、信じ、霊とまことを尽くして礼拝する人へと、新しく作り替えてくださるお方です。

 翌週は、24日の夜、クリスマスのゆうべに、いそいで拝みにきた東方の博士や、羊飼いたちと同じ心持で、またこの礼拝に戻ってまいりましょう。世の罪を取り除く神の小羊が、いまも、その柔和な姿で、世を新しくしてくださることに、希望をいただきつつ。父、子、聖霊の御名によって。アーメン。

 祈りをいたします。ハレルヤ、世の罪を取り除く神の小羊の御名前はとこしえにほめ讃えられますように。父なる神よ、あなたの赦しをいただき、あなたの方へと向き直るために、わたしどもには、なんの見返りをささげることもできません。ただ、罪をささげることしかできないのです。そのようなわたしたちに、いっさいの汚れもない、最上のささげものを与えてくださり、感謝をいたします。この尊い犠牲こそが、いまもなおのこる世の罪を取り除き、永遠の赦しを与える最高の贈り物です。翌週のご降誕を控え、主よ、いっそうこの小羊への感謝の祈りを篤くさせてください。拝みまつる幼子のお生まれの意味を心に留めながら、クリスマスをお祝いすることができますように。静かな、清い夜に、どうぞ、赦しと平安を求める魂を、お招きください。神の小羊、イエス・キリストの御名前によって祈ります。アーメン。

12月10日説教のポイント(郡上八幡伝道所)

実りを与えてください

聖書 詩編第85篇

       伝道師 三輪恵愛


寒さが日増しに募る今日この頃ですが、この時期に嬉しいこともあります。

岐阜教会の中庭に、バラが咲きました。それから、山茶花も美しい花を咲かせました。寒い冬にも関わらず、明るい赤の色をつけて、冬を彩ってくれています。クリスマスの時期に、こうして赤い色の花が咲くことと、アドヴェントの時期に典礼色、礼拝に用いる色に、赤が含まれること、関係があるのではないかと思います。わたしが長く過ごした北海道では、ナナカマドの赤い実が冬に実を結びます。冬の間、町をいろどり、野鳥を養います。

 クリスマスに込められた大切な意味の一つに、「時が満ちる」というものがあります。待ち望んでいた時が満ちて、救い主がお生まれになりました。時が満ちれば花が咲き、また実を結ぶようにして、神様の約束が成就したときをお祝いする。寒い冬にクリスマスを迎える国では、その時に、花を咲かせ、実を結ぶ植物は、クリスマスの意味を象徴するものと言えます。

 今日与えられたみ言葉のなかにも、実を結ぶ植物に例えて、神様の御業が示されていました。11節から13節までのところです。「慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます。主は必ず良いものをお与えになり、わたしたちの地は実りをもたらします」。

 この詩のなかに歌われているように、「約束の成就」としてのクリスマスは、わたしたちに良い実りをもたらしてくださったものとも言えます。旧約の民の歴史は、救い主の待望を抱きながら、神への信頼を失わなかった。この姿が、いま聖書を読むわたしたちを励ましてくれます。

 ところで、この良い実りを結ぶときでもあるクリスマスは、こうして毎年、めぐってきます。イエス・キリストのお生まれは、一回限りのことでしたが、わたしたちのクリスマスのお祝いは、毎年行われ、きっとイエス様が、また地上に来られる日まで、ずっと続くことになるのでしょう。一回限りのイエス様のお誕生を、繰り返しわたしたちはお祝いしながら、良い実りを願っていくものです。ここに、わたしたちの信仰が生きたものであるという真実が語られているように思えるのです。

 もともと、主なる神、ヤハウェの神を誉め讃えるために、古くより歌い継がれてきた詩編です。旧約の民は、救い主キリストが来られるまで、神の救いを歌にのせて祈り願っていました。それぞれの詩編には、成立した背景と言われるものがあります。この詩編85篇は、バビロニア捕囚のあと、神殿再建の頃のものだと言われます。2節を御覧ください。「主よ、あなたは御自分の地をお望みになり、ヤコブの捕らわれ人を連れ帰ってくださいました」。遠くバビロニアより解放されて、祖国の地を踏んだときの喜びの言葉と言われます。また、間をあけての9節「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます。御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に、彼らが愚かなふるまいに戻らないように。」この、「神の宣言」と言われる言葉や、民が愚かなふるまいに戻らないように、と言われることから、再建した第二神殿で、礼拝をしながら、主に悔い改めたときの姿が遺されていると言われます。このように、詩編85篇は、もともとは、罪からの解放を喜び、悔い改め、二度と神に背くまいと祈り願った歌でした。

 ところで、そうなると、なぜ5節から8節は、救いを願う言葉が歌われているのか、という問いが与えられることになります。1節から4節、また9節から14節は救われ、悔い改め、新しい歩みへと導かれたように思えるなかで、間に挟まれている歌は、どうも、救われる前のことが歌われているようなのです。これはなにか、不自然な作りになっているのか、それとも、翻訳の仕方に問題があるのでしょうか。そうではないのです。むしろ、救われたあとにも、救いを求めることがあり、また、主の救いは繰り返し実を結んでいく。これが、信仰的な歩みの、真実の姿であると、この詩編85篇は、全体で示しているものだということができるのです。

 詩編は、かつては古代のイスラエルの信仰の歌として歌い継がれてきたものでした。それがやがて、キリストの教会の礼拝で、主を誉め讃える歌として整えられていきます。こういった点では、古代イスラエルの信仰や初代のキリストの教会の信仰の道備えのあとに、わたしたちは歩んでいるということができます。

 詩編が、古い伝承の歌から、今の形に整えられたのは、1世紀末の頃だと言われます。すなわち、イエス・キリストが十字架にかかり御復活をはたされ、教会が建てられたころ。それまで、民族的な伝承の誉め歌であったものが、イエス・キリストを賛美する歌へと整えられていきました。とくに11節の「いつくしみとまこと」という言葉は、ヨハネによる福音書に通じるものと考えられたようです。さきほど、わたしたちの信仰を生きているといいました。なるほど、愛とも訳される、「いつくしみ」も、「まこと」も、一回限り与えられれば済むものではない。現在的に進行していくものです。神様が過去一回だけ愛してくださったように思えても、今はどうなのか。愛は生きて続いていくものです。神の「まこと」も、一回限り示されたように思える「まこと」も、それは、いつまでも追い求めていくものではないでしょうか。

 こうして礼拝のなかで歌われていくなかで、教会のなかでは、信仰の歩みというものの現実が、この詩編にも歌いこまれていきました。すなわち、一度、信仰を与えられたものも、その歩みのなかで、「いつくしみとまこと」が揺らぐようなときがあり、再び救いの叫びをあげるときがあり、そうして、再び、良い実りの時が与えられる、そういった歩みであるということです。時が巡り来れば、このクリスマスの時期に、赤い花、赤い実が美しく彩るように、信仰の歩みは、その時、その時にあって実りを繰り返していくものだということ。

クリスマスの時期は、伝道における大きなチャンスと言われます。この時期、見た目にも教会は美しく彩りますし、伝道的なメッセージが語られ、クリスマス的な讃美歌が歌われますから、教会が魅力的に見えるときです。この時がきっかけとなって教会に足を運ぶようになった方も多いでしょう。それは、一つの、実りの時なのかもしれません。しかしながら、いま、このようにして生き生きとした信仰の歩みを続けているわたしたちは、信仰の歩みの現実を知っています。いつも教会は、クリスマスのような華やかさはないわけです。むしろ、み言葉に耳を傾けながら、日々の現実的な生活と行ったり来たりすることの繰り返し。ときには、詩編85篇のなかほどに歌われるように、一度、救われたはずなのに、「わたしたちの苦悩を静めてください、わたしたちをお救いください」と、悲痛な祈りをささげる日も必ずあるのです。クリスマスの華やかさが、もしかしたら仇となるときは、このようなときに教会にとどまることができず、人生の苦しみのときに、教会を離れていく人もいるということです。信仰の歩みの実りは、一時的なものではなく、継続して、もっとよい実りを待ち望みながら、ときには、救いを叫ぶような祈りをささげることもある。それこそ、信仰の現実的な歩みであると。バビロン捕囚からやっと帰ってきた古代イスラエルの詩人が歌い、初代教会の厳しい試練を耐え抜いた聖徒らの詩編の歌声は、神ご自身が育てたもう、信仰の実りの真実を今も歌い続けています。

そうであればこそ、わたしたちは、このクリスマスの時に、ふたたび、神ご自身のみ言葉が人となって、わたしたちに与えられたときの喜びを繰り返し祝うことが大切なのでありましょう。

わたしが育った教会では、何年か前のクリスマスに、嬉しいことがありました。年配のご婦人が、クリスマスのチラシを見て礼拝に足を運んでくださったのです。もう何十年も信仰から遠ざかっていたけれど、クリスマスのときを思い出して、来ましたと。その人にとっては、再び良い実りがもたらされる時となったのでしょう。その年のクリスマスが大きなきっかけとなって、再び教会に戻ってこられるようになりました。神様がなさる御業は、わたしたちには想像もつきません。しかし、そのお方にとっての相応しい実りの時が、再びそうしてめぐってきたのでしょう。

良い実が結ばれるためには、土は良く耕されなければなりません。神は、人が苦しく叫びたくなるようなときに、人の心を耕して、霊的な実が結ばれる時を待っておられたとも言えます。そうです、なによりも、良い実りを待っておられるのは、神様ご自身です。イスラエルも苦難の時を耐え忍んだが、まことの救い主が来られた。それはエッサイの根より、バラが咲き出でるように。クリスマスには、信仰の芽が出るといいます。実りを与えてくださるためならば、かつての試練も、また神が与えてくださった大きなきっかけ。クリスマスにあって、わたくしたち自身がかつての歩みを顧みながら、いっそう豊かな「実を結ばせてください」と、心からの期待をこめてますます祈るときでもあります。それと同時に、多くの新しい方がたに、はじめての良い実が結びますようにと、期待しつつ、クリスマスのお誘いをしていきたいと願うものです。どうかお誘いの声をかけられる皆様に、聖霊の御励ましがありますように。父、子、聖霊の御名前によって。アーメン。

12月3日説教のポイント(郡上八幡伝道所)

欠けのあるところに

聖書 コリントの信徒への手紙一第1章1-9

       伝道師 三輪恵愛

「  欠けのあるところに  」

アドヴェント、第一週の主の日を迎えました。教会の新しい一年が今日より始まります。そして、まずイエス・キリストの誕生を待つことから、教会は一年の歩みを始めます。こうして考えると、あらためて、教会は「待っている」群れであることを思い起こさせられます。そうです。わたしたちは待っているのです。

 「待つ」ということで、この春、着任して以来、この教会における牧会を振り返りますと、わたしは何回か皆さんを待たせてしまいました。礼拝の定刻に間に合わなかったこと、致し方ないとはいえ、申し訳なく思っています。待たせる方は、心のなかで申し訳ない気持ちでいっぱいになります。お待ちになっているほうは、「必ず、来るだろう」と信じつつ、「まだかな、まだかな」と心配しながらお待ちになられたと思います。

 わたしは「待たされた方」の身にもなったことを思い出しますと、期待をしながら待ち続け、やっと待っていたものが到来したときの喜びは、ひとしおであったことを思い出します。わたしも、お待たせしたにも関わらず、みなさんが笑顔で迎えてくださったことを嬉しく思いました。 

待つ者の幸いは、必ず来られるお方の到来が、待てば待つほどに増し加えられるところにあるのではないかと思います。今日のみ言葉には、7節に「その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます」と語られていました。このアドヴェントの時は、とくに、主イエス・キリストの現れを待ち望むわたしたちにとって、期待に胸を躍らせながら過ごすときでもあります。

ところで、このアドヴェントは、なにを待つのでしょうか。当たり前のことを、あらためて聞いてしまいます。イエス・キリストの誕生を待つ、その通りです。今年は24日がクリスマスになりました。この日、降誕をお祝いする礼拝がささげられることです。

しかし、単に、イエス様の誕生日をお祝いする日を待つことがアドヴェントの意義をすっかり満たすことになるのでしょうか。結論から言いますと、そうではありません。わたしたちは、救い主イエス・キリストが再び来られる日を待ち望む、民でもあります。日本キリスト教会信仰の告白には、「終わりの日に備えつつ、主が来られるのを待ち望みます」とあります。わたしたちは、「必ずもう一度、来る」と言われた主の言葉を信頼し、待ち続けている群れなのです。

さて、今日のみ言葉は、コリントの信徒への手紙一の冒頭のところでした。ご存じのように、パウロがしたためた各書簡には、それぞれ、執筆を決意させた動機があります。コリントにおける動機はなんだったのでしょうか。

コリントの信徒への手紙一は全16章からなる、比較的長い手紙です。書かれてある内容は多岐にわたります。コリントの教会は、それだけ多くの具体的な問題を抱えていたのでしょう。ですから、これらの教会内における数々の問題を指摘し、間違いをただすことが、手紙の執筆の動機と言うことになります。それであっても、試みに、執筆の動機を一言でまとめるとすれば、どうなるでしょうか。

この手紙の最後のところ、第1622節では、この一言が記されます。短い言葉です。「マラナタ、主よ、来てください」。これもやはり、主イエス・キリストの再臨を待つ言葉です。そして、さきほど触れた第一章7節の「主イエス・キリストの現れを待ち望む」という言葉、ともあわせて考えますと、パウロは、この手紙によって、イエス・キリストの再臨を待つことを諦めようとしている、あるいは忘れてしまっているコリントの教会を、ふたたび待ち望む教会にたてなおそうとしているのです。

ひいてはこの言葉、世俗的な問題にからめとられてしまっているすべての教会に向けられていると言えるでしょう。地上の見える教会の宿命は、この世に生きているということです。それは使命です。そのなかにあって、つい、イエス・キリストが再び来られる、「すでに」救いははじまっていながら、「いまだ」に完成していない時を歩んでいることを忘れてしまうことがあります。アドヴェントのときにあって、わたしたちは常に、待ち望んでいる者であることを思い起こさすことは、大切なことです。

パウロは、この手紙のなかほどでは、けっこう厳しい指摘をします。それは教会を建て直すためです。その反面、手紙の書き出しでは穏便に言葉を選びます。これは、厳しい指摘をするまえに、手紙の差出人と、受取人は、主のまえにあって、同じ召しだされたものであることを断るためです。ここに、ただ憤りをあらわにするだけではない、配慮が見られます。厳しいことを語るまえに、これは、あなたのためを思って語られることだと断れば、聞く耳ももつものです。

とくに聞く耳を持たせるための配慮に満ちるのは、2節です。「コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。」

「イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります」、そのように語り、パウロは、あなたたちコリントの教会の人たちとわたしたちは同じ主を信じるものですよ、と思い起こさせるのです。

ところで、この「コリントにある神の教会」という言葉は、わたしたち、「教会」と、すでに日本語に訳されたものに親しむものにとっては、もはやなんの感動もない当たり前のことばかもしれません。しかし、要注意です。「コリントにある神の教会」という言い方は、じつは尋常な言い方ではありません。「教会」、ギリシャ語でエクレシアと呼ばれる言葉です。「エクカレオー」、「外側へと呼び出される」という意味の動詞からできた言葉です。もともと特別に召集されたものが集う政治的な集会、議会を意味した言葉でした。ですから、わざわざパウロは、「神の教会」と断りを入れるのです。わたしたちは、「神の呼び出し、特別な召集によって群れとされたのです」と、注意を促しているのです。けっして、人間的な仲良しこよしの寄合所帯ではない。神が頭となっておられ、わたしたちの魂を一つ一つ呼び出さなければ、教会は存在しえない、ということをパウロは語るのです。そういった意味では、ここ郡上八幡の小さな教会も、神の特別の招きによって、呼び出されたものたちの群れといいうことでは、「郡上八幡にある神の教会」と、呼ばれるべきところです。

 さて、パウロは、今日のみ言葉の後半のところで、ではなぜ、コリントの信徒たちが、神より招かれることとなり、今も招かれているのかを語ります。コリントの信徒だけに限ったことではなく、すべての諸教会が、なぜ、待ち続ける民として招かれ、いまも招かれ続けているのかを。

それは、今日のみ言葉では、二つの言葉から言えるでしょう。一つは、7節の「あなたがたは賜物に何一つ欠けるところなく」、そして、8節「わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころがない者にしてくださいます」です。つまりここで言わんとしていることは、わたしたちは、もともと欠けのあるものであったけれども、主イエス・キリストとの交わりにあずかって、欠けを満たされ、非のうちどころがない者にしていただける、ということなのです。

じっさい、わたしたちは考えます。なぜ、こうして神の招きを受けて、み言葉に聞く幸いに与ることができるのか。しかも、やがて来る、イエス・キリストの再臨の日を、畏れるのではなく、喜びながら待ち続けることができるのか。それは、わたしたちが、もともと「欠け」のあるものであったから、でありましょう。「欠け」のあるところに、キリストが来られ、すでにそこを満たしてくださっておられるのです。

アドヴェントのはじまりにあって、キリストはどのように、わたしたちの欠けを満たしてくださっておられるのか、このことも思い起こすようにと導かれています。

一つには、主イエス・キリストが人として誕生された、ということは、イエス様を通して、主なる神は、完全なる人の姿を示してくださったということです。すなわち、「この人を見よ」、エッケ・ホモと言われるたびに、この完全なる人となられた神の姿を知れば知るほどに、わたしたちは、自らの欠けを、思い知らされます。しかしながら、主は、だからこそ、その欠けを、わたしが満たしてあげようと、言ってくださる。イエス・キリストと交わりを篤くするたびに、欠けを知らされますが、あのお方は、ただ知らせるだけでなく、そこに、わたしが働こうと言ってくださるお方です。

もう一つに、クリスマスにちなんで。主イエス・キリストは、人の姿をとるにあたり、いきなり、成人した大人の姿で来られたのではなく、赤子の姿を取られたということです。人間のもっともか弱い姿です。赤ん坊。一人では、なにもできない。まったく、恵みを受けなければ、一日として生きることのできない、か弱い存在を取ってくださった。ここに、人間の真の姿は、赤ん坊のように、恵みを一方的に受けなければ、一日として生きていけないものであることを、わたしたちは示されるのです。一部の欠けどころではなく、すべてを満たされなければ、一日として、生きることはかなわない。これが、わたしたちのまことの姿ではないでしょうか。

であれば、こそ、このことを思い起こすときに、わたしたちは感謝とともに、主イエス・キリストと豊かに交わり、今与えられている賜物のすべてが、神よりのものであることを、思い起こすのです。これが、わたしたちをしっかりと主イエス・キリストを通して神との交わりにとどめ、再び来られる日を待ち望むものとしてくださるのです。

とかく、現世的な生き方は、「欠け」に恥じ入り、「欠け」があることを軽んじ、さげすむことです。みな、「欠け」を隠さなければ生きていいけないような世の中です。ほんとうは、だれもが満たされなければならない「欠け」を抱えているにも関わらず。わたしたちは、いま、こうして神のエクレシアに特別に招かれて、日々、溢れんばかりに「欠け」を満たしていただいていることに感謝しましょう。神を待ち望むわたしたちです。この待ち望むという言葉、ギリシャ語で「アペクデコマイ」と言いますが、家の外まで出て行って迎えるという意味の言葉です。待つ人は、いまか、いまかと待ち切れず、玄関の外まで出かけていって、待ち望むものです。「欠け」を満たしてくださるお方は、待つ人のもとへ必ず来てくださいます。人として、お生まれになってくださったように。

主イエス・キリストが最後までみなさんとともにあり、しっかり支えて、主イエス・キリストの日に、非の打ちどころのない者にしてくださいますように。父、子、聖霊の御名によって。アーメン。

 完全であり、聖なるお方、主なる神よ、あなたのご栄光の輝きのまえに、わたしたちを呼びだしてくださり感謝します。しかも完全ではなく、欠けの多い者であるからこそ、そこを満たしてくださるために、特別に招いてくださり感謝します。あなたのお越しをいまか、いまかと待ちきれぬ思いで過ごすわたしたちに、約束は必ず果たされる希望のために、クリスマスの喜びを再び与えてくださり感謝します。キリストの現れを待ち望むわたしどもにとり、すでに果たされた救い主の降誕は、唯一の希望です。欠けのゆえにこそ、救い主が必要なわたくしたちに、あらためて満たしてくださる方への感謝を喜んでささげるものとしてください。かつて来られ、またやがて来られる、すべての完成者イエス・キリストの御名前によって祈ります。


11月26日説教のポイント(郡上八幡伝道所)

「  キリストは命を賭ける  」

古来より、羊飼いは救い主の姿のモチーフとされてきました。翌週より、アドヴェントがはじまります。救い主の誕生を一番初めに告げ知らされたのも、夜通し、羊を飼うために野宿していた羊飼いでした。彼らは、自らの命を同じほどに尊く、か弱く、養うべき羊と、文字通り、寝食をともにしていたのです。羊のそばにいつもいて、必要なものを与え、安全なところに導く。これが羊飼いの姿でした。彼ら、羊飼いに、わたしたち人間の羊飼いである主イエス・キリストの誕生がいちばんはじめに告げ知らされたことは、意義深いことです。

預言者エゼキエルも、牧者の姿から、やがてくる救い主の姿を語ります。13節、14節にはこのようにありました。「わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。」

いま、わたしたちも羊飼いの呼ぶ声に集められ、郡上の山々に設けてくださった神の牧場に憩いのときを過ごしています。わたしたち、一人一人が、もともとは別々のところに散らされていました。誰一人、ここには、同じ時に同じ場所に生まれ、いままで一緒に生きて来た人はいないのです。そのわたしたちを、諸国の民のなかから、連れ出し、この牧草地に連れてきてくださいました。預言者の語る言葉は真実です。

ところで、この預言者は、このようにも語るのです。12節「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探しだし、彼らの世話をする」と。

この預言の言葉は、じつは当時のイスラエルにあって、斬新かつ画期的な言葉でした。また、当時の信仰の危機的状況が読み取れます。エゼキエルが預言を語った時代。イスラエルは滅びつつあり、遠く祖国から強制的に連れてこられた民が、バビロニア、異国の文化、信仰、慣習のなかで暮らさざるを得なかったのです。当時の宗教指導者と言われた、いわば人間の牧者は、そのような異教のなかにあって、すでに神の言葉を語ることが出来ず、霊的な導きを施すことができなくなっていました。

古来、主なる神は、時と場所におうじて、人を牧者としてたて、導いてきました。アブラハムの頃、先祖たちの時代には、それぞれの家の家長がたてられ、エジプトから脱出するときには、モーセが、カナンの地に入る時はヨシュアが、士師の時代には、士師たちが、そしてダビデ以降は、王たちが牧者だったのです。しかし、イスラエルという国が滅びたとき、人を牧者として立て、救いの御業を行う仕方は、極まりました。

しかし、こうした人間の牧者が人を牧場へと導くことができなくなったということは、決して神の救いのご計画の失敗ではありませんでした。むしろ、その後に起こる、羊飼いの羊飼いである救い主の到来の道備えだったといえます。

主なる神は、ご自身が直接、牧者となられる時がきたことを宣言します。11節「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」ついに、御自分が探し出し、世話をする時がきたと語られるのです。

このことは、主なる神様にとり、すでにご計画のうちにありながら、大きな決断をともなうものでした。どういう仕方で、神ご自身が、自分の群れを探し出し、世話をするのか。それは、神が人の姿を取られることで、成し遂げられることだったのです。

 神が人となる、ということは、いったいなにを表しているのでしょうか。

 11世紀ころに、神というお方の存在を言い表すことで、たいへん深い貢献をした神学者がいました。この学者アンセルムスはカトリック、プロテスタント、オーソドックス、すべての教派において、重きをおかれています。彼は、この言葉から、主なる神を知る研究を深めていきました。「なぜ、神は、人となりたまいしか」。ラテン語で「クール・デウル・ホモ」と名付けられた研究は、神が人となってくださってまで、救ってくださったのは、なぜなのか、極めようとします。

 なぜ、神が人となってくださったのか。そこに、人間からの理由付けは、一切ないと語ります。なぜならば、本来、全能者であり、すべての創り主であり、死ぬことがなく、永遠におられるお方が、人になる理由は、まったくないからです。そのまま、天の高みにおられ、人の生活に関心があろうとなかろうと、ただ御業を行うこともできたお方でした。ところが、神は、イエス・キリストのお姿をとり、人となって、救うことをご決断なさったのです。

 ここに、わたしたちの救いが、まったく神の側のみの決断による、一方的な恵みであることが、明らかにされます。神が人となって、牧者となってくださった。ゆえに、わたしたちは、はっきりと、人の悲惨さと、罪深さと、悲しさを知ります。同時に、神に養われ、導かれているからこそできる愛の業、やさしさ、隣人に仕えること、すべてもろもろの良い物を、与えられ、養われるのです。

 神が人となったということは、人並みの命の危険をどうじに背負われたことを意味します。16節「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う」

 人の姿をとったまことの牧者は、救いの御業からはずれてしまったものを一人ひとり、たずね、連れ戻し、心の傷も、体の傷も癒されました。もっとも弱ったもののそばにおり、わたしがいると語り、励まし、強められました。弱い人に関心なく、牧者のつとめをはたさない宗教者たちを対決し、十字架にかかられたのです。しかし、この十字架が、かえってわたしたちの命をもっともさいなむ、罪の死をまったく滅ぼしてくださいました。神の公平、これは正義とも訳される言葉、ミシュパートです。神の永遠の命にあずかる正義が、わたしたちに、まことの牧者の命のゆえに、与えられることとなったのです。

 わたしたち改革長老派は、神様に与えられた、誇るべき遺産として、信仰の問答を継承してきました。ハイデルベルク信仰問答、ウェストミンスター信仰問答など、また、わたしたち日本キリスト教会にも「大信仰問答」があり、いま、広く教会で用いられるようにと、改訂作業がなされています。どの信仰問答にも、神を知るところでは、このような問いがなされます。「なぜ、神は人となる必要があったのですか?神のままで救うこともできたのではないですか?」

これにたいして、わたしたち日本キリスト教会の信仰問答は答えます。「いいえ、そうではありません。神が人の姿をとったことにより、人は罪深さを示されるのです」この問答からも言えるように、神は、高いところから、教えを垂れて、その教えを聞いて、よじ登ってくることができるものだけを救うお方ではありません。わたしたち、人と同じところまでさがってきて、すべての人を、むしろ、低められている人をすくうために、人となってくださった方でした。

 先日、木曜日は、在日大韓基督教会と日本キリスト教会の宣教協約、20周年の集いに参加してきました。宣教協約20周年を記念するものに相応しく、過去のことを振り返るだけではなく、将来への宣教の希望を大いに語る集会でした。双方の教派から10代、20代、30代、3人ずつの若者が、それぞれの信仰生活と、日常生活の思うところについて、若者らしい、問題提起がなされたことです。そのうちの一人は、みずみずしい、信仰のとらえ方とともに、ともにいてくださるお方をこのように語っていました。「気が付けば、そばにいてくれる存在」。まだお若い方でしたが、教師をしているとのことでした。そこでの体験から、このようにも語ってくれました。「子供たちのことを叱るとき、たったままで、顔をみることなく、怒鳴りつけるだけでは、子供たちは、いうことをききません。しゃがみこんで、視線をあわせて、理由を聞いてから、わかるように諭すと、誤りを理解します。神様も、わたしたち人間の欠けや愚かさに、へりくだって、視線を合わせてくださるお方だと思います。」たいへん優れた、洞察だと思いました。

 神が人となってくださったことは、このような仕方でありながら、それ以上のことであると思います。神が、わたしたちと視線を合わせるように低くなられるということは、十字架に命をかけられることを決断されたということですから。命をかけて、キリストとなられることを、神は、決断されました。

 次週より、キリストの降誕を待ち望む、週に入ります。教会の新しい一年がはじまります。クリスマスのまことの喜びを深く味わうため、神が人なって、自ら、群れの世話をするお方になってくださったことを、心に留めつつ、喜びのアドヴェントをお迎えになりますように。父、子、聖霊の御名によって。アーメン。

主よ、あなたご自身が「自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」と宣言され、聖なる神でありながら、わたしたちと同じ人となってくださいました。山々、谷底をめぐり、探し出し、ここに導いてくださいましからこそ、わたしたちは群れとなり、養われ、憩いの時を過ごせます。人として、命をささげることになる死の苦しみ以上に、主よ、あなたはまずわたしたちを愛してくださいました。寝食をともにするほどに、いつもそばにいてくださる羊飼いである主よ、あなたが惜しまずに捨ててくださった命によって、わたしどもは、永遠の命を約束されました。これに応えるほどの愛をおささげしたいと存じます。どうぞ、尊い恵みのもとに、正しき道へと、導いてくださいますように。

 羊飼いの羊飼いである、救い主イエス・キリストの御名前によって、感謝し、祈り願います。アーメン。

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