1月28日説教のポイント(郡上八幡伝道所)
「 愛でたし、わたしの宝よ 」
一般的には、教会というと、建物のことを語ることが多いようです。また、建物を見て、入るか、入るまいか。見た目を一つの参考にもするのかもしれません。しかしすでに、礼拝をささげるものとされたわたしたちにとり、こうして与えられた快適な環境も、恵みであって、礼拝のための神様へのささげものです。その点、この礼拝堂も、心を神様に集中して向けるための、祈りが込められたところだと感じます。
今日、与えられたマラキ書、旧約聖書の最後の預言書です。並びのとおり、旧約の時代、すなわちイエス様が来られる前の時代です。比較的新しいころの出来事を書き残しています。当時の神の民も、神殿が完全に破壊されるという悲しく、苦しい出来事を経験しました。バビロン捕囚です。無謀な戦争をしかけたうえ、大帝国バビロニアに国土を完全に破壊され、神殿は跡形もなく、消え去ります。
マラキ書が記されたのは、バビロン捕囚から解放され、戻ってきた後の頃だと言われます。マラキよりも少しまえの預言書、ハガイ、ゼカリヤが神の言葉を語ったころ、人々は、力を合わせて神殿を再建しました。苦しい試練のあとに、やっと礼拝がささげられる。信仰豊かに歩みを続ける。かと思いきや、どうもそうではなかったようです。5節を読みます。「裁きのために、わたしはあなたたちに近づき、直ちに告発する。呪術を行う者、姦淫する者、偽って誓う者、雇い人の賃金を不正に奪う者、寡婦、孤児、寄留者を苦しめる者、わたしを畏れぬ者らを、と万軍の主は言われる。」
5節が示すように、せっかく再建した神殿で礼拝がささげられたにも関わらず、世は、なかなか神様の正義が行われない現実に、民はなやんでいました。
マラキ書は、主なる神様と、集える会衆の対話のような形をとっています。あたかも礼拝のなかで、主なる神様の言葉が預言者を通して語られ、会衆と語り合っているかのように記されます。会衆は、報われない現実に、落胆を隠しません。さきほどお読みした5節の現実は、落胆と疑いの最たるものでした。
さて、これに対して、主はマラキ書を通して、一つの重大な思い違いを丁寧な言葉で示していきます。今日与えられたみ言葉では、それが、3節のところでした。
彼は精錬する者、銀を清める者として座し、レビの子らを清め、金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に献げ物を正しくささげる者となるためである。
神殿を再建し、ふたたび礼拝をささげることとなった民、とくに「レビの子ら」と言われる、当時の宗教指導者たちは、大きな思い違いをしていました。それは、これほどの立派な神殿をわたしたちの努力で再建し、献げ物をしているのだから、世の中が報われていいではないか。というものです。ここには礼拝を捧げるものが、陥りやすい、どの時代にもありうる、根本的な間違いがあります。1節を読みます。
見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者、見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。
ここで注目したい言葉は、「あなたたちが喜びとしている契約の使者」という言葉です。すなわち、主なる神様と、救われた民の間には、契約の関係があるという根本的な考え方です。
旧約の歴史において、この契約を「結ぼう」と先に言われたのは誰だったでしょうか。それは主なる神様のほうでした。ノアにしても、アブラハムにしても、モーセにしても、ダビデにしても、この罪に弱い民をご自分の民として愛するために、契約を結ぼうと言ってこられたのは神様です。すべてを御手のうちにおく、主なる神と契約を結べば、罪を犯しても赦しのもとに置く。そのための礼拝であり献げ物でした。神の民としての契約にもとづく感謝の応答です。あくまでも先行するのは、神様からの恵み。救われたものは、応えることができるのみなのです。
②マラキのころは、そうして恵みの御業に民が疑いをもっていました。しかし主は御怒りなさらず、契約の使者を送ると言われます。さきほど読んだ1節のなかで、前半をもう一度見てみます。「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。」ここは、少し丁寧に読みたいところです。さっと読んでしまうと、「わたし」、「使者」、「主」が誰なのかはっきりしません。そこで1節を最後まで読むと、あなたたちが喜びとしている契約の使者、見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。「契約の使者」を送るのは「わたし」である「万軍の主」であることがわかってきます。そして、この「契約の使者」は、なにをするために来るのかというと「精錬する」ために。もう一度3節を読むと、「彼は精錬する者、銀を清める者として座し、レビの子らを清め、金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に献げ物を正しくささげる者となるためである。」
さきほど語ったように、当時は、人が献げ物をすれば神様が応答してくださるという大きな誤解がありました。これを正しくするために、「契約の使者」が送られる。
実際、この預言は成就いたしました。マラキ書は旧約聖書の最後の書物。新約の時代となり、まず洗礼者ヨハネが使者となり、主イエス・キリストの到来の道備えとなります。ヨハネは、自分の正しさだけをささげることで救われようとする人たちへ、悔い改め、すなわち正しい神様への向き直りを進めました。さきにわたしたちを愛してくださったのは、神様でしょう。正しさを誇ることは、順序が逆さまですよと。宗教行為さえ正しく行っていれば、義とされるという勘違いを指摘します。
こうして、ヨハネの働きにも現れているのが、「契約の使者」のつとめでした。これが2節と3節でいうところの精錬です。だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。
どうもこの預言者は、金や銀が精錬される現場を知っていたようです。高熱で金、銀を熱して、不純物を取り除く仕方。「誰が耐えうるか」というように、高熱で熱せられるさまは、あたかも厳しい試練を連想させます。しかし、この精錬は、金や銀、すなわち宝物が輝きを取り戻すためには、決して悪いことではないとも、預言者は知っていました。主なる神様が、本当に精錬し、輝かせたいのは、目に見える不完全な献げ物などではないと。むしろ契約の使者によって信仰を精錬された、あなたがた自身なのだと言うのです。
ここで金、銀と用いるのは、本当に神様にとって、宝物のような大切な存在であるという御心を示そうとしているからです。今日、与えられた御言葉のあとに、宝という言葉が実際、出てきますので、読んでおきます。1ページめくっていただいて、17節です。わたしが備えているその日に、彼らはわたしにとって宝となると、万軍の主は言われる。人が自分に仕える子を憐れむように、わたしは彼らを憐れむ。
ここでの「憐れむ」という言葉は、大事に、大事に、しまっておきたいほど大切だという意味です。宝物を、宝箱にしまっておくほどに、輝かせたいもの。
そうして、愛でたい宝物が輝きを取り戻すために、さきに遣わしてくださるのが、道備えの使者だということになります。その日のために、主の御前に立つとき、わたしたちにとってなくてはならない存在。
では、いまのわたしたちにとって、「契約の使者」とは誰になるのでしょうか。主が、その日のために、予め、わたしたちに送ってくださると言ってくださる御言葉はないでしょうか。
あるのです。ここを読んでおきましょう。世を去っていかれようとするイエス様が語ってくださった御言葉です。少し長いですが、読んでおきましょう。ヨハネによる福音書第14章25-28節です。どうぞ、じっくりお聞きください。「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、助けてくださる方、すなわち、父が、わたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな、おびえるな。『わたしは去っていくが、また、あなたのところへ戻ってくる』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。
イエス様は、助けてくださる方、聖なる霊をいま送ってくださると約束してくださいました。そしてその日にはやがてまた来られると約束してくださいました。
この整った環境において、礼拝をささげることができて感謝です。礼拝は大きな祈りでもあります。本来、神の御前に祈りをささげることもできない、すなわち神様の大きな恵みのまえに、ただしく応えることもできないわたしたちです。だからこそ、契約の使者である聖霊の執り成しが必要なのです。執り成してくださるキリストの聖霊。だから、礼拝をささげることができる。ふさわしくないところは精錬するように取り除いてくださって、輝ける神様の宝物にしてくださる。その日まで、わたしたちが、磨きに磨かれた金や銀にも劣らない宝物となれるように、わたしたちにとっての「契約の使者」、聖霊が、精錬してくださると言われるのです。ちゃんと、神様とわたしたちの間に立ってくださる方がいるのです。安心です。平和です。
かくしてわたしたちは、己を誇るような律法主義の逆さまなやり方から解放され、聖霊の恵みを受け取ったものにしかできない、明るい礼拝をささげるものとされました。わたしたちは罪に弱いがゆえに、神様にすべてをいただける愛される宝の民です。欠けの多いわたしたちが、キリストの霊に執り成され、精錬されながら礼拝をささげるたびに、神様はそれでこそキリストを世に送った甲斐があったと、天上において大喜びしてくださいます。父、子、聖霊の御名によって。アーメン。
祈りをいたします。あなたの御前に良い物を、良い物を捧げたいと願うわたしたちです。けれども、たえざる大きな恵みを知るほどに、とてもそれに見合うものを捧げることができない無力を感じます。しかし主よ、あなたはそれでもよろしいと、そのために使者を遣わし、導くと言ってくださいました。礼拝のたびに、浄められ、少しずつでもあなたの宝にふさわしくされていることを知り感謝です。今日も、聖霊の働きによって、磨かれ、精錬されました。それぞれの生活に戻っての新しい一週も、一日一日をおささげしたいと願います。どうぞ、聖なる霊、契約の使者を遣わしてください。執り成してくださる救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。